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アニメ「とらドラ!」が疑似科学の片棒をかついでいた。許せない

疑似科学やオカルト… なぜ、だまされるのか?

最近読んで、とても感銘を受けた記事。


この安斎育郎さんという方は、疑似科学やオカルトを安易に信じ込んでしまう人たちに対して、科学的な視点から啓蒙活動を行っているそうだ。
スプーン曲げが簡単に出来ることを目の前で見せて、これが誰でもできる力学の応用の一種であることを実証してみせるなど、具体的な手法を用いて、疑似科学、オカルトのたぐいを一掃しようとしているらしい。


安斎さんは語る。


「目の前で自分の理解を超えたことが起こったとき、超能力と思わずに、なぜ、こんなことが起きるのか、と考えてほしい」


すばらしい、と思った。
私もまったく同感だ。


そういえば、水に「ありがとう」と言葉をかけると綺麗な結晶ができる、などという世迷言が学校教育にとりいれられたとかで騒ぎになったことがあった。アホかと思う。
そもそも、この人はなぜ、水なんぞに「ありがとう」と声をかける気になったのだ。科学的な真偽以前にそっちのほうが理解に苦しむ。不可解だ。


テレビがこうした疑似科学、オカルト関係の番組を放映して恥じないのも、私には理解できない。視聴率が稼げればそれでいいのだろうか。少しは社会の公器たる自覚を持つがいい。
こうしたふざけた番組を放映しているからこそ、うっかり、アンコ型のスピリチュアル・カウンセラーの武道館公演に足を運んでしまう人が増産されたりするのである。


人が自分の金を何に使おうが勝手だ?
それは正論に見えるがそうではない。そのお金がもっと有意義なことに使われていた可能性(たとえば、このブログのAmazonリンクから商品を購入するなど)を考えると、これは看過できないし、また、するべきでもない。


ということで、これからは非科学的なものについては、些細なことでも、しつこいほどに追求、批判していくことにした。安斎さんがおっしゃっているように「目の前で自分の理解を超えたことが起こったとき、なぜ、こんなことが起きるのか」と考えることこそが重要だ。
そして、そう考えることが、世の人々のためでもあるし、また、ひいては個人的な幸福にもつながるのだ。


最近見たアニメのなかで、こうした疑似科学、オカルトを助長するような、非科学的なシーンを見かけたので、とりあえず、これをまないたにあげてみる。


[とらドラ!の非科学性を批判する]

人気ライトノベルが原作のこのアニメ。毎週、私は心の底から楽しみにしているのだけど、とりあえず、それはどうでもいいことだ。
重要なのは、アニメ「とらドラ!」のどこに非科学的なシーンがあったかということだ。


とらドラが非科学的?どこが?
ここが。



gijikagaku001.jpg



主人公の高須竜児がクラスメイトの川嶋亜美と会話を交わすこのシーン。
この時点で明らかな非科学性が画面から読み取れるのであるが、怒りをあらわにするのは後回しにして、別のカットを見てみよう。



gijikagaku003.jpg



川嶋亜美の足元から、全身をパン・アップしていくこのカット。
このカットでも、また物理的にありえない非科学的な現象がおきている。カットがかわったにもかかわらず、非科学的だ。
つまり、この非科学性がアニメーターの単なる描き間違いなどではなく、明白な演出意図によっていることを意味している。戦慄を覚えざるをえない。




gijikagaku002.jpg


まったくもって疑似科学的だ。オカルトである。
このスカートはなんなのだろう?
物理的にありえない角度で直立している。


そもそも、スカートには質量がある。質量とは、一般的に言う重さとは別のものであることはわざわざ説明するま(中略)つまり、ここではパンツが見えていないとおかしい!非科学的だ。


このような、小学生にでもわかる物理現象を無視したアニメが許されていいのか?否。
些細なことだからといって軽く見ていると、非科学的なもの、つまりは疑似科学、オカルトなどへの抵抗がなくなり、ミステリーサークルは宇宙人からのメッセージなどと、現実を自分に都合よく解釈する人々が生まれるのである。
大槻義彦教授が喝破したように、ミステリーサークルはプラズマという科学現象によるものなので正しい知識を教えるべき。


アニメもまた科学的知見を重視すべきだと私は思う。だから、ここでは大好きなとらドラ!を批判した。
しかし、アニメというものが、こうした非科学性によっている、いわば子どもだましだと一般人に思われるのも、一アニメファンとしては業腹だ。
ということで、科学的に正しいアニメもあるのだということだけは、ここで注意をうながしておきたい。


ロザリオとバンパイアから、赤夜萌香が自転車をこいでいるシーン。



gijikagaku004.jpg




gijikagaku005.jpg



自転車が前へ進むと空気抵(中略)つまり、パンツが見えていてすばらしい!まったくもって、科学的だ。


しかしながら、本来はきわめて科学的な思考でなりたっているはずのロザリオとバンパイアであるが、自然の摂理からすると極めて不自然な頻度でコウモリが飛来するなど、疑似科学的な兆候が見られるので注意が必要だ。


ということで、今回はつたないながらも、非科学的なものを批判してみた。これで、今までスピリチュアルに搾取されていたお金も有意義な使い方をされるだろう。
ということで、Amazonリンクを貼ってみました。


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[関連記事]

実は、ルルーシュと泉こなたの足の長さは同じくらい

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「のだめカンタービレ 巴里編」で千秋真一がロボット化:11月前半のメモ

今回の気になる出来事
「のだめカンタービレ 巴里編」の演奏シーンで千秋が3DCG化される




ロボットみたいだった。






「ヤー!!」



[11月前半のメモ]↓↓↓

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とらドラの堀江由衣がかわいくてかわいくて仕方ないんだけどこれはなにかの間違いだそうに決まっているのだというのもいままで自分は堀江由衣にはなんの興味ももっていなかったからだ神田うのに対する興味と堀江由衣に対する興味は同じくらいだそれくらい興味がなかったのだだからこれが間違いであることは明白なのだだけどどうしたらその間違いが解消されるのかわからないのでちょっと頭を冷やしているところ

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アニメのおっぱい演出について考えてみる

今回はアニメのおっぱい演出について考えてみたい。
まず取り上げてみるのは、三期も決まったらしく大変めでたいので「みなみけ」の6話。



[男目線のおっぱい描写]


春香(長女)に憧れている小学生男子の真(まこと)はなんとしても南家におじゃましたい。だが、同級生の千秋(三女)に嫌われているのでそれもかなわない。
そこで、夏奈(次女)に相談すると「女装すれば千秋にバレない」という、極めて浅はかなアイデアを授けられる。
ということで、女装(マコちゃん)して、南家にもぐりこんでいたところ、憧れの春香が帰ってくるというシーン。



oppaoo001.jpg

1 春香が帰ってくる
(春香の周りはキラキラしてる)




oppaoo002.jpg
2 女装している真を見て女の子だと認識する春香
(このカットでも春香のまわりはキラキラしてる)




oppaoo003.jpg
3 「ここには女の子しかいない」と思った春香は着替えはじめる
(おっぱいがぽろろんってなる)




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4 それを凝視する真
(小学生だからって女風呂にいれるのは安直な発想だ)




oppaoo005.jpg
5 「お客さんの前で脱ぐな」と夏奈にたしなめられて赤面する春香
(井上麻里奈にだったら、たしなめられるのもやぶさかではない)




oppaoo006.jpg
6 多幸感で悶絶する真
(しかし、この春香の顔ヘンだな)



このシーンでは、春香が脱いでいく過程で、真がそれを凝視してるカットがいくつかはさまれている。



つまり、


oppaoo003.jpg
これとか


oppaoo005.jpg
これは真の主観ショット(=視線)だ。


厳密にいえば、春香のおっぱいを映している仮想カメラ位置はちょい上からなので、真の視線と完全に一致しているわけじゃない。
しかし、それでも、ときどき真の顔のアップが挟まれることで、まるで、真が春香のおっぱいを凝視しているような効果が現れている。


そして、これが真の主観ショットであるかのように感じられるからこそ、この一連の展開はお色気シーンとしてなりたっているのだし、また面白さも生じている。
たとえば、これが夏奈や千秋の主観ショットであるとすると、ただ単に「目の前で姉が着替えをしているだけ」であるので色っぽくもなんともない。もちろん、面白くもない。


春香が脱ぎ脱ぎするこのシーンは真の主観ショットでなりたっているわけだけど、実は春香が脱ぎだす前から、これが真の主観であることが示されている。
どこか?ここだ。



oppaoo001.jpg


oppaoo002.jpg


この二つのカットでは春香の周りがキラキラしてる。
春香に憧れているのは真なわけで、このキラキラは真が春香に憧れていることを示す記号だ。つまり、春香が帰宅した時点ですでに真の主観ショットがはさまれているということになる。


ところで、この二番目のカットはよくよく考えると、ちょっと変じゃないだろうか?


というのも、春香の周りはキラキラしているから、ここの部分は真の主観なのだけど、その真自身がこの画面に描かれているんである。
これは真の主観なのだろうか、それとも客観なのだろうか?ここでは、主観と客観が混じりあっている。


主観ショットと客観ショットをわざと混同することで、叙述トリックを生み出しているといえば映画のシックス・センスがある。それから夏目友人張でも、よく似た手法が使われてた。
シックス・センス、夏目友人張の場合は意図的に混同しているわけだけど、このみなみけのシーンはどうも無意識的にそうなってるような気がする。もっとも、根拠があるわけじゃないけど。


おっぱいに限らず、パンツなどの性的対象をだれかの主観を通して描き出しているのは、よく見かける。
これには二つの意味が込められているみたいだ。
まず、一つには、登場人物の欲望のありかを明らかにすること。
そして、見ている側に、その欲望を伝播させること。このシーンでは真と、それを見ているわれわれは春香のおっぱいに対する欲望を共有している。


こういう主観ショットはみなみけ以外でもよく使われているけど、おっぱい、パンツが画面に氾濫してるにもかかわらず、ほとんど客観ショットで描かれているアニメも存在する。たとえば、ストライク・ウィッチーズ。


パンツ、乳揉み、ベッドでの寝姿と毎回、エロエロなのにもかかわらず、このアニメではあまり主観ショット(かそれに類似したもの)が使われていない。
第9話での芳佳とリーネの入浴シーンなんかはそれっぽいけど、基本的にパンツもおっぱいも客観ショットで描かれている。
これは登場人物がほとんど女に限られているので、女体を欲望の対象として見ていないからだ。まあ、例外もあるけど。あの人とか。


さて、おっぱいを主観ショットで描いたアニメのなかには、とても変わった使い方をしているアニメが存在するのでこれに触れておきたい。
本当は触れなくてもいいような気がするけど、あえて触れておきたい。
アイドルマスター XENOGLOSSIA(2007)。


[アイドルマスター XENOGLOSSIAのおっぱい描写]

アイドルマスター XENOGLOSSIAのおっぱい描写が変わっているとは言っても、そもそも、それ以前に、このアニメ自体が相当に変なわけだ。


原作ゲームではアイドルをプロデュースする話だったはずが、いざアニメになってみたら、

「iDOL(アイドル)」と呼ばれる巨大ロボットに乗って、美少女たち(アイドルマスター)が隕石を落としたり、戦闘したりする話

になってた。
その時点で十分すぎるほど変なので、そのなかの一描写の「変」をわざわざ指摘するのも野暮なことだと思わないでもない。が、一応やってみる。



oppao007.jpg


さて、これは主役の天海春香が水着のおっぱいを披露しているシーンだ。
この画面はある人物の主観ショットでなりたっているのだけど、いったい誰の主観ショットなのだろうか?


これ、ロボットの主観ショットなんである。
つまり、春香のおっぱいを見つめているのはロボットなのだ。
みなみけで春香のおっぱいを凝視していたのは真だったが、アイドルマスター XENOGLOSSIAで春香のおっぱいを凝視しているのはロボット(そういえば、二人とも同じ春香という名前だった)。


このアニメに出てくるロボットには心らしきものがあるという設定になっている。
そのこと自体は別に珍しくもないのだが、アイマスアニメのなかでは女の子たちと巨大ロボットのあいだで恋愛感情のようなものが交わされ、その出来不出来がロボットの活躍に影響してる。
いま、「恋愛感情のようなもの」と書いたが、さすがに恋愛感情そのものではないと思う。だって、相手はロボットだし。


そして、ロボットが女の子に対して「君のことが好きだよ」と意思表示をしているときに、この主観ショットがよく使われている。「見つめること」でロボットは恋愛感情を表現するのだ。
また、この「見つめること」を少しエスカレートさせた意思表示として女の子の姿を「録画する」という手段をロボットがとることもある。これもまた女の子に対する好意表現だ。


ところで、アイドルマスター XENOGLOSSIAのなかでは、基本的に男性は登場してこない。
いるにはいるのだが(爺)、たとえば、マクロスFでのアルトのように、視聴者が自分を重ね合わせることのできる男性はいない。


だが、ストライク・ウィッチーズのように男性主体がまるっきり出てこないかというと、それは違う。
われわれが女の子をいやらしい視線で見つめているのと同じく、このアニメのなかでも女の子を熱心に見つめている存在がいたじゃないか。


つまり、巨大ロボットだ。巨大ロボットこそが男性視聴者の分身なのだ。少なくとも、アニメの作りとしてはそうなっている。


そして、ロボットが女の子を「見つめること」や「録画すること」で感情表現を行うことをあわせて考えると、もっと限定された意味が浮かび上がる。
これはアイドルマスター XENOGLOSSIAにこめられた、製作者側のメタファーだ。


つまり、このアニメのなかでは、どういうわけか、アイマスファンを巨大ロボットとして表現しているらしいのである。






oppaoo007.jpg
これがアイマスファンの姿だ!








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普通の視聴者は、「まるで自分が巨大ロボットになって女の子と恋愛ごっこしてる」かのような、今までに味わったことのない異次元体験ができ、
また、原作ファンは「意味はよくわからないけど、ものすごく遠まわしに批判されてる」ような気分が味わえるということで、このアイドルマスター XENOGLOSSIAはとても価値あるアニメだと個人的に思う。


ただし、巨大ロボットになって女の子と恋愛ごっこを楽しみたいという性癖を持った人が、製作者側が予想していたよりも少なかったために、不人気に終わってしまったのは残念なことだ。
とりあえず野心作であることだけは確かなのに。その野心がどこを目指してるのかは知らんけど。


[関連リンク]
本当は面白い「アイドルマスター XENOGLOSSIA」


B000X1EF5Cみなみけ 2
越智信次 桜場コハル あおしまたかし
キングレコード 2008-02-06

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B000QUU4GEアイドルマスター XENOGLOSSIA (2)
花田十輝; 竹内浩志, 長井龍雪
バンダイビジュアル 2007-08-24

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手塚治虫的アニメの作りかた

4197201796SF Japan VOL.3 冬季号 手塚治虫スペシャル
徳間書店 2001-12

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古本屋でたまたま見つけて何の気なしに購入したムック。


ここには手塚治虫の漫画をもとにした小説が何篇か収められている。小説のほうはまだ読んでないんだけど、その他に、永井豪、寺田克也、小松左京らに、手塚治虫についてインタビューした記事がいくつかある。
そのなかで抜群に面白かったのが、杉井ギサブロー(タッチ、銀河鉄道の夜)、富野由悠季(海のトリトン、ガンダム)への対談形式のインタビュー。


これがなぜ面白かったのか?
一言で言えば、この二人だけ、手塚治虫を誉めてなかったからだ。
まあ、誉めていないというのは、ちょっと語弊があって、もちろん、誉めている部分もあるんだけど、他の人みたいに「手塚先生は神様!」みたいなトーンではぜんぜんない。


この差異がどこから来るかというと、この二人はアニメとの関わりで手塚治虫を見ているからだと思われる。他の人、たとえば永井豪なんかは、当然、漫画というフィルターを通して、手塚治虫を見ているので、インタビューを読み比べてみると、そこらへんの空気感があきらかに違っている。


この二人は虫プロにいたときの話をしているんだけど、私は虫プロについて大雑把なところしか知らなかったので、その具体的な話がとても面白かった。


ということで、その部分を抜き出してみる。



ーーー杉井さんは、手塚先生のマンガのほうはよく読まれていたんですよね。それがきっかけで、虫プロに入られたんですか?


杉井 もちろん、小さい頃から大ファンで、マンガはほとんど読んでいましたけど、僕はもともと、小学校のころからアニメーションが好きで、だから最初は東映に入ったんですよ。だけど『安寿と厨子王丸』なんてつくってるんで、何だつまらないや、というので勝手に飛び出しちゃってね。そのとき、先生がアニメをやるという話を聞いて、それは面白そうだというので手塚先生のところに行ったんです。というのも、手塚先生がアニメーションをやるということは、ディズニーのようなものをやると思ったんですよ。なら、これは触ってもいいかなと。もっとも、僕はディズニーがあんまり好きじゃないんですが(笑)。でも、さしあたり日本でディズニーをできるのは手塚先生かなというのが、ほんと正直、素直にあって。ただ、いざ入ってみると、この予想は大きく外れました。


ーーーそれはどういう・・・・・?


杉井 僕は『アトム』の第一話では原画をやっているんですが、もう忘れもしない僕が描いたアトムのワンカット目です。動画紙に先生の絵でレイアウトがしてあって、「アトム驚く、二秒」と書いてある。で、セリフが横に書いてあって、「アトム、ハッとして」と、アトムの額に汗が流れていてね。それで、僕は「アトムが驚いてハッとなる」カットだということで、驚いた顔の、その前の原画を一生懸命に描いていたんですよ。すると、先生がいきなり後ろにきて、「ギッちゃん、何やってんですか?」と。「その動きはいりません」「は?」「驚きっぱなしの止めの絵でいいです」という話になってね(笑)。


富野 それはすごい(笑)。



たしかに、これはすごい(笑)。


この他にも、アトムが汗を流しているところを描こうとしたら「(自分の漫画では汗が動いていないからという理由で)動かさなくていい」と言われた話、大群衆が走るシーンは四枚の絵だけ描いて、それを繰り返すことで走ってるように見せたという話を杉井ギサブローはしてた。


ここで語られているのは、いわゆるリミテッドアニメ的な手法なわけだけど、この手塚治虫の『発明』に対して、杉井ギサブローはこう語っている(*1)。

杉井 僕は、そのちょっと前まで、東映でフルアニメーションやってますよね。だから、こんなものはアニメになるのかと思いましたよ。二秒間驚いてて、目がパチパチとして、口でパカパカとセリフをいって、汗も動かさない。正直、こんなものはいくらつくったって絶対まともな映像にはならんと思って、それこそ、手塚先生に途中で「こんなものはアニメーションじゃない」といったこともあるんです。そうしたら手塚先生が名セリフ「ギッちゃん、これはアニメーションじゃありません、テレビアニメです」と言ったんですよ。「テレビアニメってどういうことですか」と聞いたら「いや、ギッちゃん、動きを動きで見せていくのがアニメーションだというのであれば、僕は子どもたちに物語を見せたい。その物語を補足するためのアニメーションであればいい。そうするとギッちゃんがやろうとしていたことは、動きの説明にすぎないですよね。歩いてるのに止まっては子どもが見ても変だから、それは歩かせてほしいけど、驚いててセリフがあるところで、こんなアクションというのはいらないんじゃないですか。ですから、そこはもう止めてよろしい」と。そして実際に、音楽が付いてちゃんとできあがったときに、作品になってるのにはびっくりしましたよ。アニメに対するすべての思考がひっくり返りました。なまじフルアニメーションなんかやってた者には絶対に考えられないことだった。プロの盲点というか、もし手塚先生がディズニーのようになりたいと思ってたら、あんな発想はできない。でも逆に言えば、手塚先生が幸いなことに(笑)、ウォルト・ディズニーをアニメーションでは追ってなかったからこそ、『アトム』ができたといえるのではないでしょうかね。


ということで、杉井は手塚治虫の『テレビアニメ』を評価してはいる。
しかし、こうした評価は別として、アニメの演出家としては手塚治虫は二流だと思ってたみたいだ。


まあ、そりゃ当たり前の話で、アトムが驚くカットで「驚きっぱなしの止め絵でいい」なんていう人が一流の演出家のわけがない。私はアニメの演出とかはよくわからないけど、これが演出以前のレベルでダメだってことくらいはわかる。
この対談のなかで、富野由悠季もやたら不思議がっている。あれだけ映画が好きで、また漫画で才能を発揮した手塚治虫が、なぜ映画(アニメも含めた映像表現の意味)ではからっきしダメだったのかと。


杉井 そもそも僕が東映をやめたのは自分で映画をつくりたいと思ってたからなんで、いまだから言えますけど、映画の演出に関してはね、手塚先生よりも僕のほうがプロだという意識はすごくありましたよ。だから、映画のことを教えるのは僕だと。もちろん、作家としての才能は別ですが(笑)。


富野 いま、ようやくわかった。手塚先生が一度だけ僕のことをほめてくれたことがあるんです。「うん、富野氏のフィルムは品がいいからね」って。その意味が当時は全然わかんなかったんだけど、いまの話で全部わかった。だって僕はフィルムをつなぐときに、先生みたいに杜撰じゃないから。動きの気分を受けて切るとか、アクションカットをどういうときに使うかということは、先生以上にきちんとやったから、それは品よく見えるよと、それだけのことだったわけだ(笑)。


なんか、この二人、ぶっちゃけすぎで、時々インタビュアーが「それはそうだけど、やっぱり手塚先生は偉大ですよね」みたいに話を軌道修正するところがあったりするのがおもしろい。


ついでなんで、もっと、ぶっちゃけてるところがこれ。

杉井 僕にとって手塚先生が後々までいちばん印象的だったのは、『アトム』なんかで、みんなもうメチャクチャに似ても似つかないアトムを描いたりしても、一度も手塚先生が「キャラクターが違う」と言わなかったことなんだよね。いまのマンガ家さんでしたら、原作と違うとか、僕のマンガと違うとか言いますけど、手塚先生は一度も言ったことがないんです。それが不思議でしょうがなくてね。


富野 言われてみればそうだった。


杉井 ただ、それで段々年数がたってきたら、いや、この人はアニメをまじめにやる気はないからなんだと気づきました。さっきも出ましたけど、当時もうマンガで全部、自分の仕事を仕上げてしまっているから、アニメはもう遊びでいいんだと。僕は正直、恨んで言うのじゃないけれど、アニメに賭けていたわけですから、遊びにつき合わされちゃあたまんないよなというのがありましたね。それは言わなかったですけど。


ということで、読んでいて面白かったところだけを抜いてみた。
これだけ読むと、手塚治虫批判ばかりしてるように見えるかもしれないけど、これはあくまで漫画家としての手塚治虫は偉大だという前提をふまえた上で二人は話しているので、そこは誤解しないでください。


(*1)リミテッドアニメ自体は手塚治虫が発明したわけではない。

[関連リンク]

アニメ監督ってなんだ!  ~杉井ギサブロー監督/りんたろう監督~対談

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