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映像作品は悪役の存在を必要としやすい

えっと、今回は前回の続きみたいなもんです。

アニメ版fate/stay nightがイマイチだったのは、「fateは文学」だったからかもって話

前回も触れたこの本を読んでたら、別のことに思い至ったんで、今回はそれを書いておこうかと。

4750000655ハリウッド・リライティング・バイブル (夢を語る技術シリーズ)
リンダ シガー Linda Seger フィルム メディア研究所
フィルムアンドメディア研究所 2000-02

by G-Tools


まずは前回も取り上げた、この部分。

コンフリクトにまつわる問題は、小説を脚色する際に、特に頻繁に起こる。ほとんどの小説はダイアローグ主体であり、登場人物の心理へと読者を誘う。我々は小説を読むなかで、登場人物がどのように考えるのか、何を感じるのか、何に価値を置くのか、どう問題に取り組むのかといったことを学び、登場人物の抱く不安感やこだわり、関心事の中から何らかのメッセージを見つけ出す。こういったことが登場人物をより魅力的にし、読者に読む楽しみをもたらすのであるが、映画に翻案する際には問題を引き起こすことになる。小説はリレーショナル・コンフリクトよりインナー・コンフリクトをより頻繁に使う傾向にある。


つまり、小説と映画では、コンフリクト(葛藤)を扱うときに、手法上の差異があるっていう話。
この小説と映画の部分を、エロゲとアニメに代入して「エロゲ原作のアニメは脚色が難しいんだろーなー」みたいなことを前回書いてみた。。

また、この後に、こんな文が出てくる。

小説に忠実であるとは

・小説の中で暗示されているに過ぎないコンフリクトを表面化させる
・それぞれのアクトでコンフリクトが明確になるようシーンを再構築する
・コンフリクトがストーリーを通じて1本の筋道を持つよう、それぞれのシーンに質感を持たせる

といったことを意味する。


私は脚色の方法論みたいなのにまったくの無知だから「へー、なるほどー」なんて感心ながら読んでた。
しかし、こういうのは実例を思い浮かべながらじゃないとよく理解できないもんだ。
なので、なんか良い例がないもんかと頭のなかを検索してみたら、思い浮かんだのがこの映画。

ショーシャンクの空に
ショーシャンクの空に

この映画がとてもよく出来てるってのは観た人なら、ほとんどが同意してくれると思う。
つーか、個人的に大好きなんですけど、この映画。

これはスティーヴン・キングの小説 『刑務所のリタ・ヘイワース』 が原作。
もともとは、以下の4つの中篇小説を一冊にまとめた形式で発売されている。

刑務所のリタ・ヘイワース 
ゴールデンボーイ 
スタンド・バイ・ミー 
マンハッタンの奇譚クラブ 

これらの小説って、この映画を観る前に全部読んでいたんだけど、実はこの4つの小説のなかで、いちばん印象が薄いのが「刑務所のリタ・ヘイワース」だった。
つまり、この映画の原作がもっとも地味に感じた。

スタンド・バイ・ミーは有名すぎるのでいまさら言うまでもないだろうけど、ゴールデンボーイには元ナチス軍人の老人と少年が出会って少年が狂っていくっていうおぞましさがあって印象に残ったし、マンハッタンの奇譚クラブはこれまた異常なモチーフがありつつも感動させられた。

しかし、刑務所のリタ・ヘイワースは「昔、こんな意志の強い男がいたんだよ」っていう昔語りに終始し、それはそれでいいんだけど、どうもあっさりしすぎているように思った。

この4つの小説のなかでは 

刑務所のリタ・ヘイワース 
ゴールデンボーイ 
スタンド・バイ・ミー

この3つが映画化されている。
ゴールデンボーイは未見なので、これは置いておくとして、スタンド・バイ・ミー。
これはほぼ小説どおりに映画化されてるんで、映画と小説の差異ってところでは特に言うことはない。

しかし、スタンド・バイ・ミーとは違って、小説「刑務所のリタ・ヘイワース」が映画「ショーシャンクの空に」に変換されるときには、かなりの変更点が加えられている。
その変更がこの映画を成功させたところだろうし、また、その変更はこの物語を映画という映像メディアに最適化することを目的としているように感じられる。

小説と映画を比べて、もっとも目立つ変更点というのは刑務所長の悪役化だ。
小説では、単なる脇役にすぎなかった刑務所長が、映画では利己的で金にがめついくせに建前的な道徳を振りかざすろくでもないヤツとして描かれている。
映画のクライマックスでも、この所長が主人公の障害として強く印象づけられ、その障害を主人公が乗り越えることによって、物語のカタルシスがもたらされている。

小説に忠実であるとは

・小説の中で暗示されているに過ぎないコンフリクトを表面化させる
・それぞれのアクトでコンフリクトが明確になるようシーンを再構築する
・コンフリクトがストーリーを通じて1本の筋道を持つよう、それぞれのシーンに質感を持たせる

といったことを意味する。


この小説が映画化されるにあたって、まさしくこの通りの手順で変更されてるってのに気づいてなんか感心してしまった。
刑務所が自由を束縛されたろくでもない場所でそこから逃れたいという、主人公の内面的なコンフリクトを刑務所長を徹底的に悪役にすることで小説の中で暗示されているに過ぎないコンフリクトを表面化させている。

・それぞれのアクトでコンフリクトが明確になるようシーンを再構築する
・コンフリクトがストーリーを通じて1本の筋道を持つよう、それぞれのシーンに質感を持たせる


この二つも刑務所長悪役化のおかげでかなり明確になってる。

つまり刑務所長を悪役にすることで、内面的なコンフリクトを視覚化することに成功しているわけだ。
本来は眼に見えない心の中のネガティブな部分を、悪役として外在化することで観客にわかりやすくしてる。
そして、このわかりやすい悪役の存在によってこの映画は成功している。

すべての映像メディアが悪役の存在を必要とするわけではもちろんないけれども、そういう視覚的なわかりやすさを求めやすい傾向ってのはたしかにある。
こういう傾向ってのが映像作品の欠点なのかどうかってのは正直わからない。
たとえば、大塚英志が「9・11テロ以降のアメリカがハリウッド映画の文脈に沿って行動している」という趣旨のことを書いているけれども、この点に関しては自分にはよくわからないし、実感もわかない。
実感のわかないことについては、とりあえず置いておくことにしてるので(無視するとかじゃなくて、とりあえず置いておくって感じで)、まあ、ここもとりあえず置いておく。
ただ、前の記事でも書いたとおり、表現メディアによって必要とされる要素の差異ってのは確かにあるように思う。

小説(やエロゲー)では内面的なコンフリクトが長々と語られてもそう苦にはならない。
エロゲーって注意してみると、かなり回想シーンが多かったりするし。

けど、映像作品(映画やアニメ)でそれをやられると、やっぱり辛い。
だから、そういうときは登場人物の一人を悪役にして、内面的なコンフリクトを視覚的に明確化してみるってのも一つの手なんじゃないかと思った。

たとえば、これは現在放映されているH2Oというエロゲ原作のアニメだ。








画面左の女の子と言い争うシーンなのであるが、女の子のキャラデザインが同一なので視覚的にコンフリクトを表現できているとはいいがたい。

なので、これをこんなふうに、いかにも悪役然としたキャラと取り替えてみる。











エロゲ原作のアニメはダイアローグ中心で内面的なコンフリクトを描きがちであることは、以前述べたが、こうやって悪役を配することによって視覚的にコンフリクトを表現できるのではないだろうか。

なんか左側の人はあきらかに違う世界の住人だし。
とりあえず違和感を引き起こすことにだけは成功してるといっていい。

しかし、このH2Oっていうアニメは、福本キャラを代入なんていう荒業を使わなくても、二話目にして、一人の女の子が「ゴキブリ、ゴキブリ」と級友たちからののしられ、

あげくには、






汚い汚い便所水(セリフのまま)を引っ掛けられるという、イジメが開始されているので、視覚的なコンフリクトはすでに十分すぎるほど表現されてはいる。

話の展開はどろどろしていて、なかなか面白そうではある。
ただし、まだ二話目だというのに、








作画がびみょーなのはいかがなものだろうか。
びみょーっていうか、true tearsなんかに比べると、はっきりとヒドいんだが。

正直なところ、このアニメを見続けることができるのかどうかには、ちょっとしたコンフリクト(葛藤)を感じずにはおれない。






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アニメ版fate/stay nightがイマイチだったのは、「fateは文学」だったからかもって話

古本屋で買ってから、1年以上、読みもせず放っておいた本。
本棚でホコリかぶってた。

4750000655ハリウッド・リライティング・バイブル (夢を語る技術シリーズ)
リンダ シガー Linda Seger フィルム メディア研究所
フィルムアンドメディア研究所 2000-02

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今年は本をもっと読むことを目標にしてるので、本にかかったホコリを吹きはらってこれを読んでみた。

著者は「ハリウッドでスクリプト(脚本)ドクターと呼ばれる著名なコンサルタント」らしい。
簡単に言えば、映画の脚本のダメ出しする仕事ってこと(でいいのかな?)。

で、この本は映画の脚本を書くとき、またはリライティングするときの手助けを目的として書かれている。
映画の脚本というものは、何度もリライトする(書き直す)のが当たり前らしい。
本の題名も「リライティング」となってるんだけど、別にリライトだけにこだわって書かれているわけじゃなく、全般的な脚本の書き方についての本のように感じた。

ジョーズ、トッツィー、スター・ウオーズ、バック・トゥー・ザ・ヒューチャー、SHALL WE ダンス?といった実例を出して、アイデアのまとめ方から、プロットの構成の仕方、キャラクターの造形などといった、脚本をどのように作っていけばいいのか、ということについて詳細に書かれている。

で、この本のなかには「脚本ってのはこんなふうにすると良くなるよ」ってなことがいろいろと書かれてるわけだけど、この「良くなる」っていうのは別に映画の芸術的価値を高められるという意味じゃない。
脚本をどう改良すれば興行的にヒットする映画が作れるか、っていう視点で書かれてる。
どうすれば観客にストーリーを理解させることができるのか、どうすれば観客に驚きを与えられるのか、この本が扱ってるのはそういう脚本の商業的な価値を高めるための方策についてだ。

こういう本を読むのって初めてだったんだけど、どうも「当たり前のことを専門用語を使って説明してる」っていう感じを与えるところが結構あった。

たとえば、

フォーシャドゥイングとペイオフを使うときに情報を巧妙にカムフラージュし、観客の驚きを喚起しただろうか。


この一文を読んで意味のわかる人ってほとんどいないと思う。
だけど、「フォーシャドゥイング」ってのがいわゆる伏線のことで、ペイオフってのが伏線を回収することの意味だってことさえわかりさえすれば、この文はごく当たり前のことを書いてるにすぎない。

そんなわけで、あまり面白くないところは飛ばし読みしていったんだけど、この本のなかで個人的に面白く感じたところが二つあった。

一つ目が「説明ゼリフと回想シーンはあまり使わないほうがいい」ってとこ。

とりあえず、ここでは回想シーンについて触れられたところを抜粋してみる。

回想もまた、多くの場合、劇的ではなく、単に情報をもたらすためのものだ。回想はたいてい、状況やバック・ストーリー、登場人物に関する情報提供のために使われる。よくライターは回想を使ったことを「登場人物についてより多くの情報を伝えようと思い、過去の回想シーンが現在の状況を説明するのに最適だと思った」と説明する。しかし、回想を使ってモチベーションを説き明かそうとしても、うまくいくことは少ない。これにはいくつかの理由がある。まず第一に、モチベーションは登場人物を後押しするものでなくてはならないからだ。回想は、出来事の流れを止めてしまうという性質を持つ。その上、現在よりも、遠い過去にモチベーションを見いだそうとする。(中略)また、回想はディテールを強調するものであり、劇的な瞬間を作り上げるものではない。登場人物の心の奥にひそむ心理を表面化してくれるが、現在の出来事に直接的な影響を及ぼすことはない。


この著者は「回想シーンを絶対に使うな」とは言ってない.
だけど、回想シーンを使うのなら必要不可欠なところで使うべき、とは書いてる。

この文は映画について書かれたものなんで、TVアニメや漫画にそのまま当てはめるのもどうかと思うけど、そこをあえて当てはめてみると、たとえばNARUTO。

アレって回想シーンがかなり多くて、見ててイライラすることが多い。
NARUTOを冗長に感じるのは、自分だけではないと思う。

もちろん、TVアニメや連載漫画はどうしたって中だるみするもんだから、無駄なシーンをとことんまで省いた映画とは一概に比べることはできないけど、とりあえずイラっとくるのは確か。

そして、面白かったところのもう一つが、コンフリクト(葛藤)について述べられたところ。
*以下で使われてるリレーショナル・コンフリクトというのはたとえば主人公と悪役のあいだのような登場人物間で起こる争いを指し、またインナー・コンフリクトってのは登場人物の内面での葛藤のことを指す(らしい)。

コンフリクトにまつわる問題は、小説を脚色する際に、特に頻繁に起こる。ほとんどの小説はダイアローグ主体であり、登場人物の心理へと読者を誘う。我々は小説を読むなかで、登場人物がどのように考えるのか、何を感じるのか、何に価値を置くのか、どう問題に取り組むのかといったことを学び、登場人物の抱く不安感やこだわり、関心事の中から何らかのメッセージを見つけ出す。こういったことが登場人物をより魅力的にし、読者に読む楽しみをもたらすのであるが、映画に翻案する際には問題を引き起こすことになる。小説はリレーショナル・コンフリクトよりインナー・コンフリクトをより頻繁に使う傾向にある。


この後、映画はダイアローグ主体になってはいけない、みたいなことが書いてある。
なんか、ここは「モノローグ主体になってはいけない」の間違いじゃないか、って感じがしたんだけどダイアローグらしい。
言葉でコンフリクトを表現するよりも、視覚的にコンフリクトを表現したほうが、映画的にはいいそうだ。

で、この二箇所を読んでたら、自然とある作品が頭に浮かんできた。

B0001LV6I8Fate/stay night 通常版
TYPE MOON 2004-03-26

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まあ、エロゲーなんですけど・・・。
というか、ここは話の流れ上、ノベルゲームっていう言葉を使ったほうがいいですね、はい。
上記した小説に関する部分の抜粋って、そのまんまノベル(小説)ゲームに当てはめることができるわけだし。

ということで、このfate/stay nightっていうノベルゲームなんだけども、これには回想シーンがやたらと出てくる。
たとえば、士郎っていう主人公は夜ごとに夢を見るんだけど、それが過去の回想。
過去にどんな惨劇が起こり、その時にどう感じたのかってことが夜ごと繰り返される。
たしか、このゲームの作中時間は15日くらいだったと思うんだけど、そのほとんどの夜で夢を見る。つまり、回想シーンがある。

また、セイバーなどの女子キャラの回想シーンも多い。
たしか、遠坂ルートになると、夜ごとの夢が遠坂の回想になるんだっけか。なんか、ここらへん記憶が曖昧だけど。

このゲームでは、上記した本にあるとおり、回想シーンが登場人物のモチベーションとインナー・コンフリクトを説明する役割を担ってる。
「fateは文学」という、誉めてるんだかけなしてるんだかわかんない言い方があるけれども、この回想シーンがfateの文学性を担保してると言っていい。
ここで登場人物の内面描写が深化してるって意味で。

ただ、この回想シーンの多さってのはちょっとしつこい印象すら与える。
実際、私は士郎の回想シーンになると「またか」と思って、飛ばし読みしてた。

「回想は、出来事の流れを止めてしまうという性質を持つ」
確かに、そう。

これは別に、映画の尺度を用いてfateをおとしめようとしてるわけじゃない。

2時間以内にまとめなければいけない映画と、プレイ時間が数十時間に及ぶのが普通(fateの場合だと平均攻略時間が60時間らしい)のノベルゲーム。
リレーショナル・コンフリクト中心の映画とインナー・コンフリクトとダイアローグ中心のノベルゲーム。(もっとも、fateにもリレーショナル・コンフリクトはちゃんとあるけど)
そもそものメディアの属性が違うんだから、同じ土俵に乗せることはできない。

fate/stay nightのなかで、何度も繰り返される回想シーンってのも、ノベルゲームという媒体だからこそ成り立っているわけだろうから、それはそれでいい。

ただ、これをアニメで表現しようとしたときに、アニメというメディアの特性みたいなもんと、fateの持つ文学性が齟齬をきたしてしまってるような印象は受ける。

B000EBCKM6Fate/stay night 1<通常版>
杉山紀彰 川澄綾子 植田佳奈
ジェネオン エンタテインメント 2006-03-29

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このアニメ版fateって、私には退屈だった。
どうも感情移入しにくくて、主人公が一人で突っ走ってくような印象しか持てなかった。
「主人公のモチベーションが描けてない」っていうアニメ評をどこかで見たんだけど、たしかにそういう感じ。

このアニメを見たのがだいぶ前のことなんで、ちょっと記憶が定かじゃないんだけども、たしか回想シーンはかなり少なかったように思う。
少なくともゲームにあるような執拗なまでの回想の繰り返しはなかった。
ここらへんが、主人公のモチベーションを描けていない理由の一つになってるんだろうと思う。

「回想は、出来事の流れを止めてしまうという性質を持つ」という理由で、アニメでは回想シーンを少なくしてるんだと思うけど、それがこのアニメの欠点になってしまっている。
しかし、原作に忠実に回想シーンを頻出させていたら、今度は逆に「出来事の流れを止めてしま」って、それはそれで上手くいかなかったのかもしれない。

このアニメはほとんどセイバールートなので、エロゲーをアニメ化するときにつきまとう「複数の時系列をどう処理するか」っていう問題には悩まされなかったはず。
それなのに、このアニメがいまいちだったのは、士郎やセイバーなどのインナー・コンフリクトをうまく描けていないせいだ。
その方法論的な原因の一つは回想シーンの少なさなんだろうけど、もっと抽象的に言えば「fateは文学」だったからだと私は思う。
文学、つまりはインナー・コンフリクトが多いせいで、映像化するときに、独特の困難があったんだと、そう思う。

漫画が原作であれば、こういう困難もそうないだろうけど、ライトノベルやエロゲーをアニメ化するには、脚本的にはいろんなレベルの難しさがあるんだろう。
エロゲーは特に難しそう。

ただ、こうやって考えたときに、アニメが「原作に忠実だから良い」だとか「原作に忠実じゃないからダメ」っていうのは、ほとんど意味のない評価軸だ。
なぜなら、それは表現メディアの特性を無視しているわけだから。

ものすごく単純にアニメをそれ単体で見て、面白かったとか詰まらなかったとか評価すればいいんだと思うんだけど、こういうのはたぶんマイノリティーなんだろうなあ。

しかし、今さらアニメfateを語るってのもどうかと。
さすがに忸怩たるもんがちょっとばかりあったりするんですけど。
まあ、いっか。

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