アニメにパンチラが出てくると狂喜乱舞して喜ぶ人たちがいたりするが、アレは何なんだろう、と前から思っていた。
二次元美少女のパンツが見られるのがそんなにうれしいのか?
そもそもパンツとは何だ?股間を覆う布切れじゃないか。
たかが布切れに過ぎないものがチラチラとスカートから露出する、そんなものを喜んでいったい何になるというのだろう。バカが。
そうしたバカげた態度が文化の荒廃をもたらすことになぜ気づかないのだろう。
われわれは本当にアニメでパンチラが見たいのか。
そうじゃあるまい。
もっと心を浮き上がらせるもの、もっと感覚が研ぎすまされるもの。そういうものを見たいのだ。
われわれが本当に見たいもの。つまり、それはパンチラじゃなく、
乳揺れのはずだ。
[パンツは動かない。動いているのはスカートだ]パンチラも乳揺れも似たようなものじゃないか、と言われるかもしれない。
まず最初に言っておくが、パンチラと乳揺れはその意味するところが180度くらいは違っている。
パンチラのエロティシズムとは、つまるところ文化、社会的な約束事を前提としている。
まず人間は服を着ているものだという社会的な約束事があり、われわれはいやおうなしにこれを守らなければならない。
服を着るなんて嫌だ、オレは葬式に裸で参列したいと主張したところで認められるはずもない。
こういう社会的約束事が先立って存在しているからこそ、その約束事を破ることに快楽を見出す人間が出てくる。
隠すからのぞきたくなるのだし、スカートで覆われているからパンツが見たくなるのである。
だから、ロザリオとバンパイアみたいに、パンツを見せるのがデフォルト設定のアニメでは、かえってパンチラの効果は半減してしまう。
量産型パンツ
パンチラの本質とはパンツを見せることにあるのではなく、むしろ隠すことのほうにある。
先にパンツを隠すことが重要なのである。
だから、パンチラシーンで主に動いているのはパンツ(欲望の対象)ではなく、スカート(隠すもの、また社会的な約束事)のほうなのだ。
それに対して、乳揺れはどうか?
乳揺れは欲望の対象そのものが動いている。性的物体が動くことによる純粋な視覚的快楽、それが乳揺れだ。
パンチラのように社会的な約束事を前提としているようなみみっちい感覚はそこにない。
原始的で開放的な見ることの喜び、それこそが乳揺れなのである。
パンチラよりももっと乳揺れを!われわれはネットの中心でそう叫ばなければならない。
さて、これからが本題。
ToLOVEるのOPとEDについて。
最近、テレ東並のぱんつ規制を敷いてるTBSの時点で、テレ東で放送したネギま!に近い不安を予感していたものの、見せ方次第でどうとでもなるもんだなあ、と改めて実感させられた、そんな1話。際どいところに次々とアップで迫るオープニングで、スタッフが込めた熱意は伝わってきましたよ。でも、本当に今後もパンチラ無しだと、それはそれで物足りなさが出てくるけど。
「ToLOVEる―とらぶる―」第1話|MOON PHASE 雑記
そもそもパンチラのないToLOVEるはToLOVEると呼べるんだろうか、という疑問がわかないでもない。
しかし、このOPとEDに話を限ってみると、パンチラがないにもかかわらず、これがきわめて
パンチラ的な感性によってなりたっていることに気づいたので報告してみる。
まずOPはここで触れられているように、キャラの全体が示された後に、局部にズームアップするという手法で、覗き見趣味的な映像を作っている。
ララの股間の下に監督名がクレジット。
これって監督の身になってみると、うれしいんだかうれしくないんだか、よくわからん。
OPよりも、もっとパンチラ的なのがED。
奥のララは静止しているが、手前の丸いのぞき窓のようなのは常に動いている。
欲望の対象(ララ)は止まったままで、それを隠すものが動いているところなんて、もろにパンチラ的な発想だと私は思った。
このOPとEDはパンチラは実際に出てないのに、極めてパンチラ的だ。
これからのToLOVEるがどうエロ展開していくのかってのは、1話目を見た段階では、まだわからない。
しかし、OP,EDで見られたパンチラ的な発想だけでなく、乳揺れ的な動きの快楽をもっと提供してほしいと思う。
ぶっちゃけて言えば、一話目での乳揺れが少なすぎた、ということだ。
コードギアスR2のほうが乳揺れが多かったように感じたくらいなんだけど、こういうのはToLOVEる的にどうなのだろう。
精進を望みたい。
まあ、ToLOVEるにはコードギアスにはない乳揉みがあったけども。