--.--.-- --
スポンサーサイト
新しい記事を書く事で広告が消せます。
| メモ | trackbacks:0 | TOP↑
| 戯言 | trackbacks:1 | TOP↑
客人の前で、馬場に度数の高い洋酒を一気飲みさせたり、猪木を走行中の車から突き落としたりして、強靱な肉体があるからプロレスラーは「ケロっ」としているというアピールを好んで行った
猪木の旺盛な野心はリング内に収まらず、多くの事業に挑戦している。ただし成功を収めたものはほとんど無い。
詩(ポエム)を作るのが趣味で詩集も出版した。プロレス界きっての「ポエマー」として知られている。
よくバラエティ番組などで「1! 2! 3!…」と「ダー!」という前でカットされることが多いのは、「ダー!」を放送すると数十万円のギャラを猪木に支払わなければならないからである。ちなみに「ダー」1回30万円、ビンタ(『闘魂注入』)1発10万円、『道』の朗読100万円と言われているが、街中などで猪木と出会った際にビンタを頼むと普通にタダで張ってくれるので、ビンタに関しては曖昧なようである。
猪木とは対照的に人間的に実直であり、社長就任に際しては自ら簿記を習い、自宅を抵当に入れたこともあったという。このため金融機関から高い信頼を得て、猪木社長時代に生じた負債を完済し、新日本プロレスの発展に大きく貢献した。
次男は俳優の坂口憲二。
野球をしていた当初、一度スパイクシューズを履かずにストッキングのまま練習に出てきてひどく叱られたことがあったが、一向に戻ってスパイクを履こうとはしなかった。巨大なスパイクの中に猫が子供を産んでしまったというのがその理由であった。
かなりの甘党。「羊羹をポッキーのように食べる」
2001年の第19回参議院議員通常選挙に比例代表区から自由連合公認で出馬。33,762票を獲得したが、落選した。その選挙演説の際「暴走族を撃ち殺せ!!」と発言し、市民の度肝を抜いた。
純朴で無骨な風情が年代を超えて多くのファンを魅了させている。1987年生まれの岩佐真悠子が天龍を好みの男性のタイプと公言している。
大沢あかねは、当初、長州小力を知りながら長州力を知らず、本物の長州力を見て相手を小力と勘違いして挨拶し、あとで人から指摘され、初めて長州小力が長州力の真似をしているのだと知った
身長160cm
「ケツだけで試合を組み立てられる」職人レスラーと評価されている。
アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラとの対談で、同じブラジル人というだけで「マルシアを知ってるか」と訊いた。
新日本の若手時代、(中略)猪木に「スパーリングしてやる」と言われ、「何をやってもいいですか?」と聞き、いきなり金的と目潰しを行った。
最初に石井和義(正道会館元館長)に用意されていたリングネームは「ケンシロウ」。それを拒否したところ、「ムサシ(当時)」の名を挙げられ半ば諦めで承諾。
埼玉第一高等学校(現開智高等学校)の後輩に漫画家の古谷実がいる。漫画『行け!稲中卓球部』の登場人物「竹田」のモデルとなった。
細木数子から好かれている。が、結婚を報告した時には「あんな女はやめろ!」と言われた上、股間を蹴り上げられてしまった。
弟のアレキサンダーが強盗で刑務所に収監され出所した際、「マフィアを抜け、更正します。」と言うまでパウンドで殴り続けた
帰国後、牛を倒し(合計47頭、うち4頭は即死。)、その映像は映画『猛牛と戦う空手』として公開された。
梶原一騎が極真空手を題材に製作した映画『地上最強のカラテPART2』で巨大なグリズリーとの闘いを披露し、“熊殺し”の異名を取る。
| 格闘技 | trackbacks:0 | TOP↑
| 考察 | trackbacks:1 | TOP↑
| メモ | trackbacks:0 | TOP↑
| 雑記 | trackbacks:0 | TOP↑
SF Japan VOL.3 冬季号 手塚治虫スペシャル 徳間書店 2001-12 by G-Tools |
ーーー杉井さんは、手塚先生のマンガのほうはよく読まれていたんですよね。それがきっかけで、虫プロに入られたんですか?
杉井 もちろん、小さい頃から大ファンで、マンガはほとんど読んでいましたけど、僕はもともと、小学校のころからアニメーションが好きで、だから最初は東映に入ったんですよ。だけど『安寿と厨子王丸』なんてつくってるんで、何だつまらないや、というので勝手に飛び出しちゃってね。そのとき、先生がアニメをやるという話を聞いて、それは面白そうだというので手塚先生のところに行ったんです。というのも、手塚先生がアニメーションをやるということは、ディズニーのようなものをやると思ったんですよ。なら、これは触ってもいいかなと。もっとも、僕はディズニーがあんまり好きじゃないんですが(笑)。でも、さしあたり日本でディズニーをできるのは手塚先生かなというのが、ほんと正直、素直にあって。ただ、いざ入ってみると、この予想は大きく外れました。
ーーーそれはどういう・・・・・?
杉井 僕は『アトム』の第一話では原画をやっているんですが、もう忘れもしない僕が描いたアトムのワンカット目です。動画紙に先生の絵でレイアウトがしてあって、「アトム驚く、二秒」と書いてある。で、セリフが横に書いてあって、「アトム、ハッとして」と、アトムの額に汗が流れていてね。それで、僕は「アトムが驚いてハッとなる」カットだということで、驚いた顔の、その前の原画を一生懸命に描いていたんですよ。すると、先生がいきなり後ろにきて、「ギッちゃん、何やってんですか?」と。「その動きはいりません」「は?」「驚きっぱなしの止めの絵でいいです」という話になってね(笑)。
富野 それはすごい(笑)。
杉井 僕は、そのちょっと前まで、東映でフルアニメーションやってますよね。だから、こんなものはアニメになるのかと思いましたよ。二秒間驚いてて、目がパチパチとして、口でパカパカとセリフをいって、汗も動かさない。正直、こんなものはいくらつくったって絶対まともな映像にはならんと思って、それこそ、手塚先生に途中で「こんなものはアニメーションじゃない」といったこともあるんです。そうしたら手塚先生が名セリフ「ギッちゃん、これはアニメーションじゃありません、テレビアニメです」と言ったんですよ。「テレビアニメってどういうことですか」と聞いたら「いや、ギッちゃん、動きを動きで見せていくのがアニメーションだというのであれば、僕は子どもたちに物語を見せたい。その物語を補足するためのアニメーションであればいい。そうするとギッちゃんがやろうとしていたことは、動きの説明にすぎないですよね。歩いてるのに止まっては子どもが見ても変だから、それは歩かせてほしいけど、驚いててセリフがあるところで、こんなアクションというのはいらないんじゃないですか。ですから、そこはもう止めてよろしい」と。そして実際に、音楽が付いてちゃんとできあがったときに、作品になってるのにはびっくりしましたよ。アニメに対するすべての思考がひっくり返りました。なまじフルアニメーションなんかやってた者には絶対に考えられないことだった。プロの盲点というか、もし手塚先生がディズニーのようになりたいと思ってたら、あんな発想はできない。でも逆に言えば、手塚先生が幸いなことに(笑)、ウォルト・ディズニーをアニメーションでは追ってなかったからこそ、『アトム』ができたといえるのではないでしょうかね。
杉井 そもそも僕が東映をやめたのは自分で映画をつくりたいと思ってたからなんで、いまだから言えますけど、映画の演出に関してはね、手塚先生よりも僕のほうがプロだという意識はすごくありましたよ。だから、映画のことを教えるのは僕だと。もちろん、作家としての才能は別ですが(笑)。
富野 いま、ようやくわかった。手塚先生が一度だけ僕のことをほめてくれたことがあるんです。「うん、富野氏のフィルムは品がいいからね」って。その意味が当時は全然わかんなかったんだけど、いまの話で全部わかった。だって僕はフィルムをつなぐときに、先生みたいに杜撰じゃないから。動きの気分を受けて切るとか、アクションカットをどういうときに使うかということは、先生以上にきちんとやったから、それは品よく見えるよと、それだけのことだったわけだ(笑)。
杉井 僕にとって手塚先生が後々までいちばん印象的だったのは、『アトム』なんかで、みんなもうメチャクチャに似ても似つかないアトムを描いたりしても、一度も手塚先生が「キャラクターが違う」と言わなかったことなんだよね。いまのマンガ家さんでしたら、原作と違うとか、僕のマンガと違うとか言いますけど、手塚先生は一度も言ったことがないんです。それが不思議でしょうがなくてね。
富野 言われてみればそうだった。
杉井 ただ、それで段々年数がたってきたら、いや、この人はアニメをまじめにやる気はないからなんだと気づきました。さっきも出ましたけど、当時もうマンガで全部、自分の仕事を仕上げてしまっているから、アニメはもう遊びでいいんだと。僕は正直、恨んで言うのじゃないけれど、アニメに賭けていたわけですから、遊びにつき合わされちゃあたまんないよなというのがありましたね。それは言わなかったですけど。
| 書評 | trackbacks:1 | TOP↑