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『よつばと!』のよつばの髪が緑色なのはなぜ?

『よつばと!』をロリコン漫画だと思う感覚が僕にはピンと来なかったりします。
何故なら、僕は最近までよつばを男のコだと思っていたから。

よつばが男のコだったら『よつばと!』は……やまなしなひび


よつばを男の子(なんじゃないか?)と勘違いしていたという、この記事がたいへんに面白かった。
私はよつばと!を1巻から順に読んでいったので、そういう勘違いはしなかったのだけれども、途中から飛び飛びに読んでいくと、こういう勘違いもありうるのかと。
その勘違いの方向性が、まったく予想していなかっただけに、やたらと新鮮に感じた。
(そういえば、私もNHKにようこそというアニメを見ていて「このヒロインは主人公の作り出した妄想だ!」と派手に勘違いしたことがあるので、人様の勘違いを喋喋できる筋合いはないのだけど)


この記事を面白く感じたのは、他にも理由がある。
私がちょうど、ユリイカ6月号におさめられた、斉藤環のよつばと!評を読んでいたところだったからだ。そして、これとあわせて読むと、このやまなしさんの「勘違い」には、それなりの理由があるように感じられる。
女の子であるはずなのに、男の子に勘違いされても、おかしくないような要素が、よつばというキャラにはあるんじゃないかと。


ってことで、そのことについて自分なりに書いてみようと思う。



[そもそも、よつばの髪はなぜ緑色なのか?]



よつばと! (2)


とーちゃんに拾われた、外国人の女の子、という設定になってるよつばであるけれども、それならば、いったい「何人」なんだろう?


一巻の最初のほうで、恵那がよつばを一目見て「外国の子?」と感想をもらしていることからして、外国人っぽい、つまりは日本人離れした風貌をしているのだろう。つまり、日本人に顔が似ている、韓国人や中国人ではない。
肌の色からすれば、黒人、東南アジア系、南アジア系でもない。
とすると、たぶん、白人系の人種なんだろう。


しかしながら、白人でも、髪が緑色の人間はいない。まあ、こんなのはわざわざ言うまでもないことだけど。


状況証拠からして「たぶん、白人系なんだろう」と推測ができるだけであって、よつばのビジュアルを見ただけでは、いったい何人なのかはさっぱりわからない。


髪の色に触れたついでに、髪型にも触れておくと、いったい何なんだろう、この髪型は。
名前がよつばだから、四つに髪を結んで、四つ葉をアピールしているのだろうか。
奈良のマスコットキャラだからということで、大仏に鹿の角をつけてみたせんとくんと同種類のセンスを感じる(ごめんなさい、これはさすがに言葉がすぎた)。


他のキャラ、たとえば風香はとてもリアルな肉体に描かれているのに、よつばだけが現実感のない風貌で描かれている(上の2巻の表紙でも、風香の足はとても肉感的に描かれているのに、よつばの足は凸凹がなくまっすぐ)。


斉藤環の文章のなかに、以下のようなくだりがある。(キャラ/キャラクターというのは伊藤剛の援用)

『よつばと!』においてはあきらかに、よつばだけがキャラで、他の人物はキャラクターと考えることも可能だ。だから、先の伊藤剛によるインタビューで、よつばスタジオ代表の里見英樹が指摘しているように、かりに映画化の話があったとしても「よつばだけアニメで、あとは実写でやればいい」ということになる。


やまなしさんの勘違いというのも、つまりは、よつばだけがアニメ的存在だというところに起因してるんじゃないかと思った。つまり、よつばだけが非実写的な、現実に依拠していない存在だからこそ、こういう勘違いが生まれたのではないかと。つまり、勘違いにもちゃんと意味があるわけで、そこが、とても面白かった。


[よつばと!を最初に読んだときの違和感]

実は、初めてよつばと!を読んだときに、このよつばの現実感の無さに、私はかなりの違和感を感じた。これは、ただ単に、風貌だけのことではなく、その言動も含めた総合的な印象なんだけど、よつばのことを、どうも作為的に感じてしまった。
正直に言うと、よつばという存在をうそ臭く感じたのだ。


もっとも、この違和感はすぐ消えた。たぶん、この漫画の文法に慣れたんだと思う。2巻を読むころには、よつばのことも大好きになってた。


よつばと!は一見すると何気ない日常を描いた漫画だ。
牧場に行ったり、天体観測したり、ニジマスを釣りにいったり。
あずまきよひこは自分のブログでモデルになった場所を公開してるから、実際にそこを訪れることも可能だ。

7巻の話~牧場(牧場のシーンのモデルになったのは5ヶ所あるらしい)

よつばと!で描かれている日常は、誰にでも反復可能な日常に見えるけど、それでもやはり、これは漫画のなかだけにしか存在しない日常だ。その漫画らしさを担保しているのが、よつばという存在なんだろうと思う。


[ところで、よつばと!は一般人にも理解できるか?]

そんなのは知らない。知らないが、この前段にはたぶん、「あずまんが大王は一般人には理解できないけど」なる文言が省略されてるんだろうなあ。


たしかに、あずまんが大王は、オタク的特殊性に満ちた漫画だということで、評価が一致してるみたいだ。
もともと私はオタクじゃなかったが、それでも、あずまんが大王はとても面白く感じたので「よつばと!のみならず、あずまんが大王だって一般人にウケる」と主張したいところだけど、さすがに大泉さんのような例を見てみると、それは違うらしい。
(もともと大泉さんはオタクじゃない)

(マリみてを読んで、何が面白いのかわからなかったという話のあと) その後読んだ『あずまんが大王』(*4)は、ある意味でもっとすごかった。これまた女子高生の世界だが、作中に男性主体がいないとかいうレベルの話ではなく、ひたすらかわいいものをめでる作者とキャラの息づかいしかしないのだ。性的な要素が微塵も感じられない。読む人が読めばその空気感が心地よいのだろうが、僕には空気が止まっているようにしか感じられず、眠くて死にそうになった。そして、何度挑んでも最後まで読み通せなかったのである(アニメ版は工夫が凝らされていて面白く見ることができたのだが)。

第16回 ジェンダーの越境 オタクとは何か?


そういえば、私はあずまんが大王を読んだほとんどすぐ後に、よつばと!を読み始めたのだけれど、そのとき、ひどく驚いたことがあった。
女性キャラがやたらとエロティックに見える!んである。あさぎや風香がとても色っぽく感じた。前にも書いたことがあったけど、私はあずまんが大王に出てくるキャラには、ぜんぜんいやらしい目線を向けることができなかった。ただ単に、男キャラが出てくるだけで、これだけの差が生じるのかと驚いたものである。


よつばと!はあずまんが大王に比べれば、あまりオタク的な特殊性は感じない。つまり、一般人にも理解できそうな漫画に見えるのは確かだ。実際にどうなのかはさておき。


だけど、紙屋研究所さんのこの文章なんかは、よつばと!も同じくオタク的な漫画だと主張しているように見える。

お隣にいる三姉妹は「美女」「女子高生」「小学生女子」である。表面からは消して回った性は、この3姉妹に息づいており、そのときどきにむけられる、あずまの彼女たちへの性的なまなざしをみるがいい。何も性的なイヴェントは起こらないけど、作品世界のそこかしこに性的な空気が充満している。

 これは、「ヲタク」の欲望を理想化した世界だ。

あずまきよひこ『よつばと!』


なるほど。たしかに、よつばと!はオタクの欲望を理想化した世界なのかもしれない。
しかし、それはオタクに限った話ではない。だって、隣にあさぎや風香みたいな美人姉妹が住んでたら、男ならだれだってウハウハだろう。
つまり、こんなのはオタクの特殊性に当てはめるべき話ではなくて、ごくありふれた一般的な欲望の一つであるにすぎない。


それから、この文章には一つとても気になるところがある。
あずまきよひこがあさぎや風香に対して、性的な目線を向けているのは確かだと思う。作中では実際に「美女」「美少女」と呼ばれているし。
だけど、「小学生女子」こと恵那に対してはどうだろう?この漫画のなかで、恵那をいやらしい目線で見ているところなんてあったのだろうか?どこらへんが、いやらしい目線で見ているのか、私には見当もつかないな。



ユリイカ 2008年6月号 特集=マンガ批評の新展開
ユリイカ 2008年6月号 特集=マンガ批評の新展開
記事内でとりあげた斉藤環の文章が載ってる。
しかし、それよりも、泉信行という人が書いたスクラン評のほうが面白い。






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歴史に残りやすいアニメ、残りにくいアニメ

昔、山下達郎がこんなことを言っていた。

「ロックと違ってモータウンとかは語りにくいんだよね。それで歴史に残るっていくのは、ロックみたいな言語化しやすい音楽のほうなわけ」

あやふやな記憶をもとにしてるんでぜんぜん正確じゃないんだけど、だいたい、こんな意味のこと。

モータウン(・サウンド)が歴史に残っていないかと言えば、そりゃ違う。
実際に今でもちゃんと聴かれている。
しかし、モータウンのような、人を楽しませるだけに作られた娯楽音楽よりも、ロックのような、社会性だとかメッセージ性みたいなのがある音楽のほうが語られやすいし、また歴史に残りやすいってのも確かだと思う。

実際、歴史に残ってるロックバンドのなかには、今聴くと「なんじゃ、こりゃ」ってのが数多くあったりする。
60年代から70年代にかけての、いまだに名前が残ってるロックとモータウンを聞き比べてみると、明らかにロックのほうに外れが多い。
つまり、ロックのほうがその実力よりも過剰に評価されてる印象がある。
(いちおう、私はロックファンなんだけど)

結局のところ、人が人に何かを伝えようとするときは、基本的に言語による。
そうしたときに、ロックのように「語られやすい」ものってのは、人々のあいだに伝わっていきやすいし、また人の記憶に長く残りやすい。
だから、歴史に残りやすいってことだろう。

別に語られやすいものしか歴史に残らないってことではない(実際、モータウン・サウンドは歴史に残ってるし)。
だけど、人々が語りやすいもの、語りを誘発しやすいもののほうが後々まで人気が続く傾向にあるのはたしかだと思う。


宇宙戦艦ヤマトと機動戦士ガンダム

この二つのアニメはともにアニメブームを巻き起こした作品であるけれども、ガンダムのほうがあきらかに人気が長持ちしてる。
これには、いろいろな要因があるだろうから一概にはいえない。
ガンダムのほうは、いまだに新作シリーズが作られていることもその要因の一つだろうし、またガンプラみたいに長く愛される商品群があることもそうだろう。

だから、ガンダム人気の要因を一つだけに定めることはできないんだろうけど、上述した「語られやすさ」ってのも、要因の一つとしてあげられるんじゃないだろうか。
ヤマトとガンダムを比べると、そりゃガンダムのほうが語りやすいわけだし。

語りやすいということにも、さまざまなレベルがある。
ここはとりあえず、便宜的に話を狭めてみると、ガンダムのほうが文芸批評的な語りをしやすい。
ここで言う文芸批評的ってのは、、作品というものを作家の反映であると無意識的に観じる態度のことを言ってるんだけど、富野由悠季っていう人はそうした語りを誘発しやすいんだと思う。
ガンダムに対する愛情と憎悪だとか、またそれを解消したかに見える∀ガンダムにいたる歴史とか。
その他にもニュータイプがどうこう、っていうのもあるし。
そういうふうに作家の歴史と作品というものを重ね合わせて見るっていう態度が、富野及びガンダムを語るときによく見られる。

それに比べると、宇宙戦艦ヤマトと松本零士のあいだには、そういう文芸批評的な語りがなりたちにくい感じがあるような気がする。
あくまでヤマトはヤマトとしてなりたっていて、わざわざ松本零士という作家を参照しなくてもいい、とでもいうような。
まあ、ヤマトブームのときに、どういう語られ方をしたのかっていうのが私にはよくわからないので、そこらへんは断言できないんだけども。

それと松本零士は富野に比べれば個性の薄い人なので(作品の個性が薄いってことじゃなくて、その人となりが激烈じゃないっていう意味で)、そういう部分でも語りにくさってのはあるだろう。


アニメブームを起こした作品というと、このヤマト、ガンダムに加えてエヴァンゲリオンなわけだけど、エヴァはとても語りやすい。
というか、エヴァについて語ってる人なんて、今まで数え切れないくらい見てきた。
庵野という作家も富野と同じく個性の強い人で、また文芸批評的な語りが成り立ちやすいところも共通してる。
エヴァの人気というのは、10年くらい長続きしてるんだけど、その人気の要因の一つは明らかにこうした語りやすさだ。

「語るべきこと」を見つけるのが苦手な人でも、エヴァだったらそれなりに語れる。
そういう語りに対する容易さによってエヴァは言語化され、言語化されたことによって多くの人々に伝播し、そして、それがエヴァを歴史に残る作品にしてる。

とか言いつつも、自分はエヴァについてなんて語れやしないんだけど。
いやー、綾波が好きとか、そういう低レベルのところでしか語れないな、うん。
ついでに書いておくとガンダムについても語れないと思う。
情けな。

まあ、それはともかく、エヴァの語りやすさというものを考えると、たぶん、ヤマトよりもエヴァのほうが人気が長持ちするんだと思う。
ヤマトの人気がどれだけ続いたのかってのはよく知らないし、また「ヤマトの人気は10年続きました」みたいに数量化できるもんでもないだろうけど、たぶん、人気が永続するのはエヴァのほう。


あずまんが大王は語りやすいか?

ところで、こんなふうに「語りやすい作品は歴史に残りやすい」ってことに思いをめぐらしているうちに、それじゃ逆に「語りにくい作品」ってのはなんだろうと思った。

で、自分の頭のなかに浮かんできたのはこれらの作品。


あずまんが大王(2)
あずまんが大王


苺ましまろ 1 (通常版)
苺ましまろ


ひだまりスケッチ 6
ひだまりスケッチ


みなみけ 2 (期間限定版)
みなみけ


要するに、どうってことない日常をまったり描くタイプの作品。

こういうのって、どこがどう面白いのか説明しにくい。
たとえば、自分はあずまんが大王は漫画のほうはすごく面白いけど、アニメはいまいちと思ってる。
だけど、その差異を上手く説明することができない。
せいぜい「作画がちょっと・・・」とか「リズムがどうも悪いような・・・」とかその程度のレベルでしか言葉にすることができない。

また、これらのアニメの面白さってのにも明らかに差があって、まあ、どれがいちばん面白く、どれが詰まらないかということは、ここでは言わないけど、その差がどこからきてるのか説明できない。
言語化することが難しい。
そもそも、これらは明確な物語がないわけだから、どこをどう語ればいいもんだか見当がつかない。

もっとも、私はガンダムもエヴァも語れないような人間だから、そりゃ語れないのも当たり前な話だけど、私に限らずほとんどの人が、これらを語るのに難儀を感じるはず。
「面白い」とか「~(キャラ名)が好き」とか、その程度であれば、言葉にできるだろうけど、ちゃんと一本スジの通った語りを成り立たせるのは難しいだろう。
これら日常系の萌えアニメを語ることができるのは頭のいい人、センスのある人に限られていると思う。

上であげた作品が歴史に残るのかどうかについてはわからない。
けど、とりあえず、語られやすいものと比較すれば、相対的に残りにくいんじゃないだろうか。

ところで、上述した日常系の萌えアニメに「らき☆すた」をいれてなかったんだけど、これは意図的にそうしてみた。
というのも、この一年を振り返ってみると、どうも「らき☆すた」ってやたらに語られていたような印象があったから。

これは、らき☆すたのどこが面白いのかわからないっていう人たちがいて、それに反論する形で語られていたように思う。
結局のところ、そういうアンチの人たちのおかげで、議論が活発化し、らき☆すたという語りにくいはずのアニメが語られてきた。
これって実は、とても幸福なことなんじゃないだろうか。

私はらき☆すたに関しては、大好きってわけでもないけど、そこそこは好き、っていう極めてヌルい態度で接してた。
しかし、こういうヌルい好意よりも、「このアニメが嫌いだ、具体的にはここが嫌い」と明確な言葉で示した人のほうが、このアニメにとって有り難かったんじゃないか、ってそう思う。

てなわけで、これから精霊の守り人とDarker Than Blackとバッカーノについて長文で批判してみようかと思ってるところです。

[追記]
囚人022さんがつけてくれたコメント。

>これは「ちょっと待った」と物言いを付けたい部分が多々あります。少なくとも松本零士のキャラの激烈さは富野さんに負けてないよ?

あ、そうなんですか。
松本零士って、温厚なイメージしかなかったです。
ま、パクリがどうしたってとこはさすがに知ってましたけど。

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