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2008年01月 | ARCHIVE-SELECT | 2008年03月

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墓場鬼太郎はサブカルアニメ ノイタミナの反オタク性

ノイタミナ枠で墓場鬼太郎をやるって聞いたときは、最初、何を意図してるんだか、わけがわからなかった。
ノイタミナって連ドラのようなアニメがコンセプトなんじゃなかったっけ、って思って。

ハチクロ、のだめカンタービレ、働きマン。
ノイタミナと聞いて連想されるのはこれらのアニメなんだろうけど、この3つはアニメ化と前後する形で、実際にドラマ化されてるし。
こういうのだったら、確かに連ドラのようなアニメってのもうなずける。
もやしもんはちょいと微妙ではあるけど、まあ、連ドラになってもおかしくはない・・・かも。

たしかに、ノイタミナ枠では、ハチクロなどのほかにも、怪 ~ayakashi~やモノノ怪といったオリエンタリズムなアニメもやってるわけで、墓場鬼太郎もそれの一種と考えれば、それほど不自然ではない。
だけど、そもそもモノノ怪とかってノイタミナのイメージからは外れてるような気がするんだけど。
いや、ちゃんと見たことないんで、あまり偉そうなことは言えないが。

墓場鬼太郎とノイタミナでやるという意図がまったくつかめないまま、アニメ墓場鬼太郎を見てみたわけだけど、このOPを見た瞬間に「ああ、そういうことか」って合点がいった。

hakaba001.jpg
hakaba002.jpg


hakaba004.jpg
hakaba003.jpg



主題歌は電気グルーブ。

電気グルーブのテクノに、この映像のずらし加減。
ああ、そっか。
これって、要するにサブカルなわけでしょ。

このアニメをいったん、サブカルだとみなしさえすれば、いろんな部分で腑に落ちるような気がする。
墓場鬼太郎だけじゃなくて、ノイタミナ全体のことが。

オタク界隈で「サブカル」っていう言葉が、どういうイメージの範囲で使われてるんだかよくわからない。なんとなくのイメージはわかるんだけど。

自分でもなんとなくのイメージのまま言葉を使うんで、まとまりを欠いた文章になっちゃうような気がするんだけど、まあ、とりあえず感じたことをそのまま書いてみようと思う。

枠名称である「ノイタミナ」とはアニメーション(Animation)を逆読みしたもので、「アニメの常識を覆したい」という制作スタッフの想いに由来する。
(中略)
主に少女漫画を原作とした作品を放送する[2]事で、従来アニメを見ないと思われていたF1層を意識した展開を図っている[3]。
ーノイタミナ Wikipedia


ノイタミナの「アニメの常識を覆したい」ってのは、このF1層を取り込もうとする姿勢にあるんだと、今まで思い込んでた。
ターゲットとしているF1層、つまりオタクからスィーツ(笑)って呼ばれる層ってのが、従来のアニメを見る層とは異なってるっていう意味合いなんだろうと。
そりゃ、オタクとF1層では明らかに異なる人種なわけで、「アニメの常識」に反するのは当たり前だ。

ところで、ここで書かれてるアニメの常識ってのは、もっと具体的、個別的に言えば深夜アニメ的な価値観のことだと、これまた勝手に私は思い込んでた。
深夜アニメ的な価値観ってのを、今、放映されてるもので具体化してみると、clannad、みなみけ、ロザリオとバンパイア、true tears、ここらへん。
この4つって、それぞれに全く異なる作風ではあるけれど、どれもが、とても深夜アニメ的だ。
まあ、思いっきり簡単に言えば、オタク向けの商売してるってことだけど。

これらのオタク向けの商売じゃなくて、F1層(スィーツ)向けの商売してるのが、ノイタミナなんだと私は思っていて、そこらへんの商売の流儀の違いが「アニメの常識を覆したい」の部分なんだと感じていた。

もちろん、これはこれでそれなりに正しいんだろうけど、墓場鬼太郎OPに妙なサブカル臭を嗅ぎ出した後で、ちょっと見方が変わった。

要するにノイタミナの「アニメの常識を覆したい」の部分って、この枠のサブカルっぽさを意味してもいるのかもしれないな、と。

ハチクロが芸大を、のだめカンタービレが音大を舞台にしてるのが急に象徴的に思えてきたんだけど、思い返してみれば、ノイタミナのアニメって妙にサブカルっぽい。
たとえば、ハチクロ。
実写OPとか、あと音楽の使いかたなんかが、ものすごくサブカルな感じがする。
怪やモノノ怪ってのも、オリエンタリズムと解釈するより、芸大的なサブカル志向とでも解釈したほうがひょっとしたらいいのかもしれない。

オタクとF1層はたしかに対立概念だ。あきらかに。
だけど、オタクとサブカルってのも実は対立概念なんじゃないかって気がする。

これは最近思ってることなんだけど、サブカルとオタク文化って近いように見えて、実は正反対の存在なんじゃないかっていう。
たとえば、昔、岡田斗司夫が著書のなかで「おたく文化はサブカルチャーじゃない」と力説してた。
岡田が言ってるサブカルチャーとここで使ってるサブカルとはかなり意味合いが違ってはいるので、適切な引用ではないだろうけど、そういうサブカルチャーとのあいだに一線を画したいとでもいうような気分が岡田のなかにあるのかもしれない。
ものすごく強引な論理展開だったしなあ、この「おたくはサブカルチャーじゃない」論って。

実は、私は岡田斗司夫のようなオタク第一世代じゃなくて、オタク第三世代のほうが、サブカルと相性が悪いような気がしてる。
むしろ、岡田斗司夫ってとてもサブカル的な人に見える。
まあ、これは後で気が向いたときにでも書いてみることにしようかと思ってるけど。

話を墓場鬼太郎に戻すと、このアニメがF1層をターゲットにしてるようにはさすがに思えない。
宣伝とかでは「女性向き」ということになってるけど、どこが女性向きなんだかさっぱりだ。
だから、実際に見るまではノイタミナ的じゃないように感じていたんだけど、上で書いたような経緯を辿って、これは意外とノイタミナ的なアニメなんじゃないかと考えるようになった。

要するに深夜アニメ的なものに対するアンチっていう一点においては、ハチクロも墓場鬼太郎も同じじゃないかと。
まあ、そんなことを感じた。

*そういえば、墓場鬼太郎って子供のころに原作を読んだことがあるんだけど「アニメの鬼太郎とぜんぜん違う!」ってガッカリした記憶があるなー。
ものすごく嫌な読後感が残ったように覚えてる。
このアニメを見てみても、実際、鬼太郎が気色悪い。
しかし、さすがにもう子供じゃないんで、今度はそれなりに楽しく見られそう。

参考:ノイタミナーwiki

墓場鬼太郎 (1) (角川文庫―貸本まんが復刻版 (み18-7))

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これを言っちゃうと、なぜかいろんな意味で負けた気がする言葉



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何の根拠もないのになぜか勝手に思い込んでること

2ちゃんねるとかで、

「月厨」って書き込んでるのは、Keyのファン。

「鍵厨」って書き込んでるのは、TYPE-MOONのファン。



理由は自分でもよくわからないんですけど、なぜか以前からそう思い込んでます。
この二勢力が仲が悪いとか聞いた覚えはまったくないんですけど。

というか、自分はエロゲー自体をそうやるほうじゃないですし。
TYPE-MOONは月姫とfateの二つ。
KeyはAirしかやったことないですし。
だから、そもそもエロゲ業界の事情とかもよくわかってないです。

う~ん、なんでだろう。こんな思い込みしてるの。
自分でも不思議。

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人間、この壊れやすいもの ガンダム00第18話感想

ガンダム00第18話。


これ、めっちゃ良かったんですけど!!!


実は、釘宮参戦前の10話くらいはいまだに録画したまま見てないです。
だから、キャラ名も主人公とスメラギさんくらいしかわからない。
しかし、なんで釘宮理恵が出てきたとたんに見始めたんだろ、私。
そんなに好きなんだろうか、釘宮のことが。
しかし、10話くらいスキップしてるにもかかわらず、ストーリーがわかりづらいと全く感じないのが不思議です。
なんか、だいたいのこれまでのストーリーが想像ついちゃうってのはなんなんでしょうか。
他のブログの感想とかもぜんぜん見てないのに。

そんなことはとにかく、今回、すごく良かったのが、ルイス(←名前を今、調べた)のエピソード。

gundam00003.jpg


話の中盤で、スペインでの結婚式に出席していたルイス。
そこを偶然通りかかったトリニティ三兄弟のガンダム。

ニーナ(←釘宮、今、調べた)は気まぐれでその結婚式を砲撃。
ルイスも巻き込まれ、怪我をする。
日本でそのことを知った恋人の沙慈(←今、調べた)はスペインの病院へ駆けつける。



ルイスの無事を確認してほっとした沙慈は、ルイスに指輪をプレゼントする。



gundam00001.jpg

ルイス「きれい・・・・・・」




しかし、指輪をはめるべきだったルイスの左手はもう失われていた・・・・・。

gundamu00994.jpg


このシーン、チラっとだけ、失われた左手が示されて、その後、ルイスはすぐに左手を隠してしまうんですけど、その描写がこれが決定的でもう取り戻せない喪失であることを印象づけてます。

どうも、このシーンが良すぎて、正直、心が震えた。
鳥肌が立った!(c.高田延彦)
その後、トリニティ兄弟に立ち向かっていく刹那がめちゃカッコよく見えたもの。

どうも、自分でもこのシーンに過剰反応してる気がしないでもないです。
いままでガンダム00を見てなかったくせに、なにやら熱狂しちゃってるし。
その理由が何かっていうと、もともとアニメ(とかマンガ)のなかで描写される暴力ってのに尽きせぬ興味があるんですね、自分は。
それを拙いながらもちょっと説明してみます。

大塚英志が「マンガやアニメのキャラクターというのは不死身として描かれやすい」みたいなことをよく書いてるんですけど、たしかにそういう部分ってのはあります。
たとえば、ジャンプのバトル漫画なんかは典型的なんですが、あれはキャラの不死身な身体性によりかかってストーリーを展開させてることが多い。
そういう不死身な身体性というものがもたらすカタルシスもあるわけで、それはそれでいいわけです。
見てるほうも、これはリアルな暴力とは違うと思って見てるわけだから。

バトル漫画をリアルだと感じる人はあまりいないでしょうから、まあ、これは置いておくことにして、もっとリアルだと感じられるようなものはどうか?
たとえば、これとか。

4063725537バガボンド―原作吉川英治「宮本武蔵」より (24)
井上 雄彦 吉川 英治
講談社 2006-10-23

by G-Tools


バガボンドだったら、普通のバトル漫画とは違い、描写も写実的でリアルに感じられます。
ですが、本当にバガボンドはリアルなんでしょうか。

私は前に日本刀で斬られたことのあるオッサンから話を聞いたことがあります。
なんでも、若い頃に、酒に酔っ払って、見かけたヤクザをからかって遊んでたら、そのヤクザがどこかに走っていった。
逃げたんだと思って酒を飲みなおしていたら、そのヤクザが日本刀片手に戻ってきて、斬りかかってきた。
側にあるイスなんかを投げて、防戦してたら、そのうち警察が駆けつけてきて、ヤクザをしょっぴいていったらしいです。
で、ほっとしたら、上腕を斬られていたことに気づいたと。
ざっくり斬られて血はとめどなく溢れてたんだけど、不思議とまったく痛くはなかったって言ってました。

別に腕を切り落とされたわけじゃなく、骨が見える程度まで斬られただけ(斬られただけってのもどうかと思うけど)らしいんですが、そのオッサンはその後、拳を握ることが出来なくなってしまった。
腕の神経が切断されて、つながらなかったらしいです。
だから「ジャンケンでグー出せねぇんだよ」って笑ってました。

そういうことを考えると、一見リアルに見えるバガボンドですが、実はこの漫画も同じく身体の不死身性によって成り立っていることがわかります(注1)。
武蔵も小次郎も、数限りない傷を負いながら、その戦いが終わればピンピンした姿で再登場する。
あれだけの傷を負ってどこにも障害がでない、彼らはとても漫画的なキャラクターです。

私が思うに、「暴力によって失われたものは二度と戻らない」という、喪失の感覚を持たないものは真に暴力を描いているとは言えないのではないか、と。
そして、暴力というものが我々の身体を毀損せしめる決定的なものだからこそ、私は暴力に惹かれているのです。
そこにあるのは、暗くて根源的な畏れのような感情で、ある意味では宗教的なものかもしれません。
身体が危機にされされるからこそ、身体の儚さ、脆さ、そしてかけがえのなさが明らかになるとでもいうような逆説性。
とは言っても、暴力的な映画とか格闘技とか見てるだけなんですけどね。
たけしの初期の映画なんかも、暴力っていう視点から見るとめっちゃイイです。
そういえば、たけしは「おれの作る映画はハリウッド映画とは違って、ちゃんと痛みが伝わるようにしてる」みたいなことを言ってました。

で、アニメの話。

アニメ、漫画では具体的な身体性を描くのはそもそも難しい。
これは、バトル漫画的な非現実を描くか、それともリアルを描こうとするか、という態度とは別の次元の話です。
ぶっちゃけて言えば、「所詮は絵」なわけで、どれだけ残虐なものを描こうとしても、実写には負けてしまいます(注2)。
しかし、あえてそこで暴力を描こうとする逆説的な態度ってのに、どうも自分はめっぽう弱いらしい。
暴力を描きにくいものをどうやって暴力として描くか。
そういう試みに何の意味があるのかは、自分でもよくわからないんですけど、とにかく興奮します。
今回のガンダム00に熱狂しちゃってるのがいい例なんですけど。

そういえば、ガンダム00と同じく水島監督の作品である鋼の錬金術師。

B000E5KTSE鋼の錬金術師 PREMIUM COLLECTION
朴路美 釘宮理恵 豊口めぐみ
アニプレックス 2006-03-29

by G-Tools


考えてみれば、これは、最初から主人公の兄弟二人の身体が欠損していました。
兄は右手と左足、弟は全身を。
その失った身体をもう一度取り戻すために、この二人は幾多の困難を乗り越えていくわけですが、その困難な道のりというのが、すなわち失ったものの大きさを示している。
そういう、通常の漫画・アニメ的な身体性っていうものに対する逆方向からの視点がこの作品にはある。
手塚治虫のどろろにも、こうした失われた身体の回復というモチーフが出てきますが、ハガレンのほうが、もっと徹底してます。
なにしろ、やっと目的を達成したと思ったら、そこにも新たな喪失が待っているわけだから。
そこらへんが、このアニメを非凡なものにしてる理由の一つなのかもしれません。

何か話があっちゃこっちゃ行っちゃったんですけど、これからガンダム00を応援してみようかなって気になりました。
おっと、その前に、見てない10話分くらい見とかなきゃ。


注1:そういう漫画的な欺瞞ってのに、自覚的なのがこの漫画かもしれません。

4088773527リアル 7 (7) (ヤングジャンプコミックス)
井上 雄彦
集英社 2007-11-29

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注2:暴力を描いたアニメと言えば、エルフェンリートなんかはかなりよかったです。あの予期せぬ暴力の感覚ってのは独特。



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バガボンドについて、ちょっと反省

前回の記事
人間、この壊れやすいもの ガンダム00第18話感想

この記事、ガンダム00を見た直後に勢いに任せて書いてみたら、ちょいとばかし勢いがつきすぎてしまってたみたいです。まるで、坂を転がる石みたいに(反省)。

なにしろ、今、読み返してみたら、この文章ってバガボンドよりもガンダム00のほうが、リアルで暴力的だ、と主張してるように見えてしまいます。
バガボンドよりもガンダム00のほうがリアルで暴力的・・・・・そりゃないわ。
いや、いや、いや、さすがにそれはない。

明らかに、バガボンドのほうがずっとリアルで暴力的です。
バガボンドのなかでも腕が切り落とされるシーンがあるわけだし。

ただ、バガボンドって「リアルで暴力的」を意図して描かれているからこそ、その限界が見えてしまう漫画だな、って前から思っていたのは事実です。

たとえば、「強敵と死闘を繰り広げることで物語を盛り上げる」っていうバトル漫画の文法を使ってしまっているせいで、結果的に武蔵が壊れにくい肉体を持った超人的な人間として描かれてしまってるところとか。

ここらへん「倒れても倒れてもあきらめずに戦い続ける」という、これまたバトル漫画の文法に則っていた矢吹丈がその肉体を崩壊させていく痛ましさと比べるとその対比が明らかになると思うんですけど。

こんなことを書くと、バガボンドが嫌いなのかと誤解されそうですけど、まあ、そりゃ誤解です。純度100%の。
私はバガボンドは傑作だと思ってるので。
つーか、原作の吉川英治の宮本武蔵よりもずっといいと思ってます。

ただ、私のバガボンドの見方ってのが、どうも他の人とはぜんぜん違うらしい。
吉川英治の宮本武蔵から、井上雄彦は相当の変更点を加えているんですけど、そこが自分には面白かったりします。
簡単に言えば、吉川英治の宮本武蔵よりも、井上雄彦の宮本武蔵のほうが好き。
だけど、吉川英治的な宮本武蔵の成分がバガボンドには残っている。
それは私の眼には余分なものとしか映らないんですけど、そこを賞賛してる人ってかなりいるんですね。その感性の違いに驚きました。
つーか、たぶん違っているのは確実に私のほうなんでしょうけど。

なので、今度、それを書いてみようかなー、とは思ってるんですけど、まあ、書かなかったりするんだろうなー。
異常な長文になっちゃうので、誰も読んでくれなさそうだし。



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たとえ、それがおっさんであっても神楽坂という名字だったら「え?ひょっとしてツンデレ?」とか思ってしまうに違いない

みなさん、ある程度の時間、この人生というやっかいなものを過ごしていると、特定の名字に対してある種の固定観念みたいなものが生まれてきませんか?

たとえば、高橋という名字に私はある特定のイメージを持っています。

簡単に言えば「高橋姓にはなぜかバカが多い」というイメージです。
それは今まで出会ってきた高橋さん達の言動が私のなかで澱のように積もり、「高橋=バカ」という固定観念を生み出してしまったわけです。
もちろん、これは一般化できるような話ではなく、あくまで私の経験からくる局地的な真理でしかありません。(いや、真理ですらないですけど)
しかし、私が高橋という名字に「バカ」というイメージを持ってしまっているのは事実。
以下、試しに私の高橋という名字を持った人たちとどういう関わりをもってこうした結論に至ったのかについて簡単に書いてみます。

あらかじめ断っておきますが、全国の高橋さん、不快な思いをさせてしまってごめんなさい。
悪気は少ししかないので許してください。


小学校5年のときにクラスメートだった、高橋太郎くん。
高橋という部分は、そのままですが、太郎というのは仮名です。
さすがにフルネーム出すわけにはいかないので。

その高橋くんは、習字の時間に「好きな言葉を書け」というお題を出されて、こう書いた。

takahashi02.jpg


好きな言葉に「努力・友情・勝利」という、某少年誌のお題目を書いているところが、高橋くんがバカであることを示している・・・・・というわけではないです。
そんなことを言ったらジャンプ読者にケンカ売ってるようなもんですし。
実を言うとこの「努力・友情・勝利」は今、自分で適当に書いたものなので高橋くんとは何の関係もありません。

全体の紙の長さを考慮しなかったばっかりに、努力・友情のところは普通のサイズで書いているのに、勝利のところで紙幅が尽きてしまって尻すぼみになってるところがバカ!・・・・・・っていうわけでもありません。
今述べたように、これは自分で書いたものですし。適当に書いたら余白がなくなっちゃっただけです。(←バカ!!!)

実は高橋くんがバカであることを示すポイントはここ。








takahashi.jpg


名前です。
高橋くん、自分の名字を間違えて、のぎへんにしてた・・・・・・・・・。そのとき、もう小5だったのに。

クラス中の爆笑をゲットした、この事件が私にはたいそう印象深く「ひょっとして高橋はみんなバカなんじゃないか」という疑念を抱かせるきっかけとなりました。

次に私が会った高橋さん。
この高橋さんは口から先に生まれたんじゃないかと思うほど、よく喋るオッサンでした。「お前と話しているとなぜか気が滅入る」と周りに評されるこの私を相手に2時間、3時間は平気で喋る。
よく喋れるな。私のような、ろくに相槌すら打たない木偶の坊相手に。

彼はどこがバカだったのでしょうかか?

この高橋さんは昭和18年生まれだったんですが、自分は「戦後生まれだ」と言っていました。


太平洋戦争の年表
1941年(昭和16年)
日本、英米蘭に宣戦布告(太平洋戦争開戦)

1942年(昭和19年)
ミッドウェー海戦
第一次ソロモン海戦
第二次ソロモン海戦

1943年(昭和18年)
山本五十六連合艦隊司令長官、ブーゲンビル島上空で戦死
イタリア、連合国に降伏。
東京で大東亜会議を開催、大東亜共同宣言を発表。
エジプト・カイロで英米中首脳会談(カイロ会談)
高橋さん、生まれる。←!!!

1944年(昭和19年)
グアム島の日本軍玉砕。
レイテ沖海戦
神風特別攻撃隊、レイテで初出撃。
米軍の新型爆撃機B-29、マリアナ諸島より東京を初空襲。

1945年(昭和20年)
クリミア半島ヤルタで英米ソ首脳会談(ヤルタ会談)。
硫黄島の戦い
東京大空襲
沖縄戦
戦艦大和沈没
ドイツ総統ヒトラー自殺。
ナチス・ドイツ滅亡。
米軍、広島に史上初の原子爆弾投下。
米軍、長崎に原爆投下。御前会議でポツダム宣言の受諾を決定。
8月15日 日本国民へ玉音放送(終戦の詔)。


年表を見ていただけると一目瞭然なんですが、高橋さん、どう見ても戦時中に生まれてます。

中学、高校生くらいが、終戦が昭和20年ということを知らないことには別に何も思いません。
昔の話だし、そう正確に覚えていなくても当然だろうとは思う。
そもそも、昭和で覚えるよりも、西暦1945年が終戦、という覚え方をしてる人のほうが多いでしょうし。
だけど、いくら終戦当時に物心がついてなかったとは言っても、戦前生まれの人間が終戦がいつかってのを知らないってのはどうも・・・・。

この高橋さんとの出会いが私のなかで「高橋=バカ」という図式を決定的なものにしました。
だから、私は高橋という名字の人と会ったりすると、それだけで「ひょっとしたら、この人ってバカなんじゃないか?」と思ってしまうクセがついちゃってます。

高橋陽一先生、ごめんなさい。
先生がサッカーのルールをガン無視した漫画描くのは、先生がバカなせいじゃないかとかひそかに疑ったりしてます。勝手な思い込みでホントにごめんなさい。

フィギュアスケートの高橋選手、ごめんなさい。
あなたがいつも、口を半開きにしてるのをテレビで見ていると私のなかで「高橋=バカ」説がより信憑性を帯びてきます。
せっかく、男前なんだから、もう少し口を閉じたほうがいいんじゃないでしょうか。老婆心ながら。


えっと、この高橋以外に印象深い名字というと「高原」ですかね。
つーか、また「高」の字がついてますが。

高橋さんと違って、私は高原さんを一人しか知らないんですが、この人があまりに強烈な人だったので、高原と聞くと、私の頭のなかにはすぐこの人のイメージがわいてきます。
この高原さんは、当時25くらいでしたかね。
見た目はちょっと怖かった。

で、この高原さん、車に乗っていて、妙齢の女性を見かけると、おもむろに窓を開け


「姉ちゃん、やらせろや!」



と大声で叫ぶという、まあ、とんでもない人でした。

そのほかにも、背中に墨が入っていたり、ムショ帰りだったり、シャブ中だった過去を持っていたりすることもあって、それ以降、私のなかで「高原は野獣」というイメージを決定づけてくれました。
サッカーの高原選手とかも、優しそうな顔してるけど、さぞかし野獣なんだろうなー。まあ、何の根拠にもなってないんですけど。

と、このように人間というものは、特定の名字に対して何らかのイメージを持ってしまっていることが、ままあるんじゃないかと思われます。
それは、同じ名字に同じタイプの知り合いが何人かいるという、経験の蓄積からくる思い込みであったり、一人の強烈な人を知っているがために、その名字に固定的なイメージがついてしまったり。

アニメ、漫画、ゲームでは、今まで聞いたことのない名字のキャラってのがよく出てきます。
日常生活では、まず出会うことのないタイプの名字。

こういう変わった名字が使われることの理由の一つには、上述した固定観念の混入をさける目的があるのではないか。
つまり、一般的でありがちな名字を使ってしまうと、そのキャラのイメージに受け取り側の固定観念(高橋=バカみたいな)が付与されてしまう恐れがあるために、普通、出会うことのなさそうな名字を付けているんではないか、みたいなことをずいぶん前に書いた覚えがあります。
我ながら下らない考察だったんですけど、下らないことを書いてるのはいつものことなので、まあ、いいか。

ここでは、現実→フィクションという矢印を避けるために、こうした珍しい名字が使われているわけですが、これを裏返してみるとどうでしょうか。
つまり、フィクション→現実という事態が発生したとき、我々はいかなる精神作用を及ぼされてしまうのか、という問題です。
具体的に言うと、既に特定のキャライメージがついている名字の人と現実で出会ったとき、我々は必ずその人を歪んだ視線で見てしまうに相違ない。

神楽坂 椰子 沢近 遠坂 厳島 涼宮 花鳥

これらの普段の生活では滅多に出会うことのない名字の数々。
しかし、もし万が一、これらの名字の人と現実で出会ってしまったとき、たとえ、それが顔のホクロから毛がにょろんと出ているような、むさくるしいオッサンであったとしても、

「え?ツンデレ?」

とか思ってしまい、ひょっとしたら自分にしか見せないか弱い部分があるんじゃないか、などとありえない妄想にふけり、その毛がにょろんのオッサンについときめいてしまう。
そんな事態が考えられます。

また、

高屋敷 鳴沢 涼宮 北条 遠野 朝霧

これらの名字の人がたとえ、細木数子みたいな美少年以外のすべてに敵意をむき出しにするようなオバサンであったとしても、

「え?ひょっとして妹タイプ?」

とか思ってしまい、まるで小動物を見るような愛おしい感情が沸き起こり、細木数子とありえない過ちを犯してしまう。そんな事態が考えられないこともない。

これはその名字が珍しいものであればあるほど、こうした精神作用は強くなると考えられます。
たとえば、神楽坂、椰子、沢近、厳島、花鳥、高屋敷、鳴沢あたりは相当に珍しい。
なので、こうした名字の人と出会った時の精神作用、言い換えれば感激は相当に強くなってしまう可能性があります。
なので、特に注意が必要かと。

[参考記事]
属性別選手権 ツンデレ級王者決定戦
第2回 属性別選手権 いもうと級

ところで、この両方に出てくる涼宮という名字なんですけど、妹のほうの涼宮茜(君が望む永遠)のほかにも涼宮遥なんてのもいますね。つーか、それ茜の姉ちゃんなわけですけど。
ハルヒを想起すればツンデレ、茜を想起すれば妹、遥を想起すればなぜか涙がとめどなく溢れてくるという、この厄介な涼宮という名字。
しかし、この名字ってそもそも実在してるんですかね。
どうも、作り物臭いんですけど。
涼宮のほかにも、椰子とかもありえなさそうな名字に感じます。
しかし、椰子はかわいかったなー。もっとも、鉄(くろがね)のほうが好みではありましたけど。
あ、鉄(くろがね)もありえなさそうな名字だな、しかし。


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完全無欠なオタクはどこにいる?

ガンダムも見たことがありません。ドラゴンボールもない。エロゲもやったことある作品が少なくて、いわゆる過去の名作と呼ばれるものはKey作品をいくつかと君望くらいしかやってないです。

ぬるオタでごめんなさいー遥か彼方の彼方から


こんなふうに、自分のオタク教養のどこが欠損してるのかをあげてみるのって面白そうだと思ったんで、今回はそれについて書いてみます。

しかし、私なんて「オタクにでもなってみようか」と思って、オタクになってみたというクチなんで、そもそも自分のオタク教養のうちのどこが欠損してるんだかわからないです。
つーか、いまだに自分のことをオタクだとすら認識してないですし。
スゴいオタクの人を見ていると、自分はオタクじゃないよなって、しみじみ思うもの。

さて、自分のオタク教養のどこが欠損してるんだろう?
そのくらい知ってて当然だろ、みたいなデカいところはどこだろう?

デカイところといえば、ここかな?
映画パトレイバー。

これ見たことがないです。
BSでやってたのをチラっとは見たことあるんですけど、ちゃんと見たことがない。
これは、たぶんかなりデカい欠損ではないでしょうか。
いや、見よう、見ようとは思ってるんですけど、いろんなことにかまけているうちに、見る機会を失しているという感じです。

そういえば、押井守監督のアニメってかなりの部分を見たことがない。
宮台真司がさんざん言及してる、ビューティフル・ドリーマーも見てないですし、天使のたまごも見たことがないです。

攻殻機動隊はとても面白かったんだから、そこから他の作品にも手を付けてみればいいのにそうしてない。

まあ、面白いとは言っても、攻殻機動隊は押井版よりも神山版のテレビアニメのほうが面白く感じたんで、どうも押井監督と相性が悪いのかもしれないです。
ただ、パトレイバーthe Movieだけは必ず見ようとは思いますけど。
なにやら傑作らしいので。

漫画ではどこだろう?
ブリーチは読んだことないですね。
今、なんで自分の頭のなかにブリーチが浮かんできたのか、自分でもよくわかりませんけど。
少女マンガは、自分の目に付いたところしか読んでないので、たぶん穴だらけです。
世界中のゴルフ場のカップを足し合わせても及ばないくらい。

他にも、私のオタク教養のうちの欠落部分ってのは数限りなくあるんでしょうけど、そもそも欠落部分がどこなのか、ということ自体がよくわかってないです。
特にエロゲーあたりなんかは、それほど好きなジャンルではなかったりするんで、ほとんど無知のまま。
10本くらいしかやったことないんじゃないですかね、エロゲーって。

ところで、私はオタクになる前にこの本を読んでました。

4872332792オタク学入門
岡田 斗司夫
太田出版 1996-05

by G-Tools


この本に「アニメだけを見るというのはただのファンやマニアで、オタクというものは様々なオタクジャンルに精通していなければならない」みたいなことが書かれてます。
初めてこれを読んだときは「へー、そうなんだー」って無邪気に感心してたんですけど、どうも自分自身がオタク文化に触れてみて、また色んな人のブログなんかを読むうちに、どうも変に感じてきました。

たしかに、全てのジャンルに精通してる達人みたいな人っているにはいるんですけど、その数ってそう多くはないように見えます。

漫画に関しては異常に詳しいのに、アニメにはあまり詳しくないとか(松本憲生すら知らないとか)。
他にも、このジャンルは詳しいけど、そっちのジャンルにはあまり、みたいな例が結構見受けられます。

私のような、ぬるオタにも、そうした欠落が見えるんだから、他の濃いオタクの人から見れば、もっと眼につくものなんでしょう。

こういうのを見ていると「聞いてた話と違うやんけ」って、妙な憤りを感じてたりしたんですけど、そのうち、これって当たり前のことにすぎないように感じてきました。

だって、結局のところ、みんな時間がないんでしょうから。

以下は、googleに「○○ 平均 プレイ時間」などと適当に打ち込んでみて、上位に表示されたものを適当に並べてみたもの。


君が望む永遠 50時間

fate/stay night 60時間

CLANNAD 44時間



つまり、この数字は、この3つの有名なギャルゲーをやるためにかかる時間の目安です。
もちろん、これは個人差もあるでしょうから、一概には言えませんが、これくらいの時間がかかる場合があるらしいです。

私はクラナドはやったことないんですけど(Airならある)、他の二つならプレイしたことがあります。
君が望む永遠なんて、二人しか(遥と茜)攻略してないんですし、かなりテキストをスキップしたんですけど、相当の時間がかかったのは確かです。

ところで、この3つを全部あわせると154時間ですか。
不眠不休でプレイしてみても、えっと・・・・何日かかるの、これ?

いま、電卓で計算してみたところ、6日以上かかるらしいです。
寝ちゃダメ、排便しちゃダメ、たとえ食うにもプレイしながら、という過酷な条件下でも6日かかると。

たった3つのギャルゲーをこなすのにもこれだけの時間がかかる。
これに加えて、他のコンシューマ系のゲームをプレイしたとすると、まあ、えらいことになります。
どれくらいえらいことになるのかは、よくわかりませんけど、とにかくえらいことになる。
ドラクエとかFFとかのRPGを私はまったくやらないんでよくわかりませんけど、たぶん、あれらのゲームもこのくらいの時間はかかるもんなんでしょうし。

さて、今まではゲームの話しかしてませんが、オタク的な教養を深めるという目的のもと、これにアニメや漫画やラノベを鑑賞する時間も合わせると、これまたえらいことになります。時間的に。
どれくらいえらいことになるのかは、もはや判断することすらできません。
たぶん、生きている時間のすべてを注ぎ込まなければいけなさそうなことだけはわかる。

とりあえず、2007年に放映されたアニメの本数は127本らしいです。

2007年のテレビアニメ
(しかし、これ全部に眼を通した人っているんですかね?)

しかも、これに加えて、tek_kocさんが書いておられるように、若いオタクは過去作品も見なきゃならない。
オタク文化とは言っても、かなり長い歴史があるわけで、それに習熟するのはなかなか大変だろうと思います。
そりゃ、どう考えても時間が足りなすぎる。
これじゃあ、さすがに完全無欠なオタクってのがなかなかいないのも仕方ないんだろうなって思いますけど。

*そういえば、漫画、アニメだったら、教養として過去作品に眼を通さなければならない、みたいな無言のプレッシャーがあるように思うんですけど、ゲームってどうなんですかね?
たとえば「初期ドラクエをプレイしたことのないヤツはゲームを語る資格はない!」みたいな雰囲気ってあるんでしょうか?
セーブ機能すらないようなものを今さらプレイしろ、と言われても、なかなか困るとは思うんですけど。


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触手はいったいだれのものか?ー触手ものにおけるエロティシズム

アダルトゲームとかアダルトな漫画とかアダルトなアニメとか、そういうとかくアダルトな方面で昔から使われてる表現に触手ものと呼ばれる1ジャンルがある。

触手ものについて、今さら説明するのも気が引けるが、そこをあえて説明してみると、女性に触手がからみついて、色々なアレやコレをするという趣向のエロティックな表現のことである。

この触手ものって、ずいぶんと昔からあるような記憶がある。
どのくらい昔から使われていたのかは知らないので、少し調べてみたら、Wikipediaの触手責めという項目に以下の記述があった。

触手責めは日本において特に好まれ、発展したポルノグラフの一様式である。古くは葛飾北斎の『蛸と海女』で描かれている。触手責めーWikipedia

私は漫画などで、いつから触手ものが使われていたのかを知りたかっただけなんだけど、いきなり北斎まで話が飛ぶとは。
そういえば、この北斎の蛸の春画ってどこかで見た覚えがあるな。
どこで見たのかは忘れてしまったけど。

どうも日本人は昔からイカ、タコなどの軟体動物と女体の絡みにエロティックな妄想を膨らませていたらしい。

同じ項に「(触手責めとは)ファンタジー作品やSF作品に登場する架空の怪物が触手を用いて人間と性行為を行うシチュエーション」なる記述があるんだけど、ファンタジーはともかくSFで触手が使われるのには、想像力の連続性みたいなのが確実にあるんだろう。
なにしろ、昔のSFに出てくる宇宙人ってのは、タコの姿で表現されていたわけだから。

さて、触手ものについて書いてみようと思ったはいいが、実は私は触手ものに詳しくはない。
いや、もし私が触手ものに詳しかったりしても、それはそれで、人格的な屈辱を感じるだろうから、詳しくなくても別にかまわないんだけど・・・・。

ただ、私の狭い知見(←ホントです)から言うと、アニメ、漫画などのいわゆる触手もので、タコやイカの足が実際に使われているのをあまり見たことがない。

触手ものの犯し手がタコ、イカであることは確かにまれではあるけど、別にそういう意味で言っているのではなく、ここで問題にしてるのは触手の形状のことだ。
私が見た触手の形状のほとんどはイカ、タコの足のように吸盤がついているタイプのものではない。
はっきり言っちゃえば、ほとんどの触手はあきらかに男根を模して描かれていた。
先端が丸みを帯びた触手。
これが男根の模造品であることは誰の眼にも明白だ。

北斎はタコの足が女体と絡む様を描いているが、別にそれを男根に似せようとはしていない。
しかし、おそらく、ここでも男根のイメージというのは確実に脳裏によぎっていただろう。
無数の男根が女を蹂躙する、その子供じみた誇大妄想。
こうした、けたたましい性的イメージが触手ものと呼ばれるジャンルが長きにわたって愛用されている要因なのだろう。

しかし、この触手ものと呼ばれるポルノの1ジャンルを見ていると私は不思議な気持ちになる。

よくメディア論などで使われる「身体共有感覚」という用語がある(注1)。
これは、スポーツの試合観戦などをしているときに、視聴者がスポーツ選手の肉体を共有しているかのように感じる感覚のことだ。
たとえば、格闘技の試合などを見ていて、まるで自分が試合をしているような気分になり、知らず知らずのうちに拳を硬く握り締めている、などの経験はほとんどの人がしているであろう。
ちなみに、この身体共有感覚はスピードが速いと働きにくくなり、スピードが遅いと働きやすいと言われている。
たとえば、シュガー・レイ・レナードのすさまじく速いコンビネーション(ほとんど眼にもとまらない)と、総合格闘技における寝技。
このどちらに身体共有感覚が働きやすいかというと、総合の寝技のほうなのである。

いきなり格闘技の話をされても格闘技ファン以外はわかりにくいだろうから、アニメで説明してみると、コードギアスの戦闘シーンよりも劇場版エヴァ(最近のじゃなくて昔のやつ)の戦闘シーンのほうが身体共有感覚は働きやすいってこと。
コードギアスの戦闘シーンはめっちゃ速い(普通の人間の動きよりも明らかに速い)。エヴァはのろい(普通の人間のレベルの動き)。
これを見比べてみれば、スピードが遅い劇場版エヴァのほうが、自分が戦っているような感覚になれるんじゃないかと思う。
まるで、エヴァ弐号機と自分が一体化してるような身体感覚があるはずだ。

実は、私はロボットアニメというジャンルは身体共有感覚というものを、アニメ的に解釈した一大発明なのではないか、という感想を以前から持っていたりするんだけど、それはそれで別の話。

話を元に戻す。

さて、ここで問題提起をしてみたい。
触手ものを見ているとき、我々の身体共有感覚はどのように働いているだろうか?
我々と言っても、これは男性に向けて言っているんだけど、果たしてこの触手という存在をまるで自分の男根のように我々は感じているのか?
女体にめぐらされた無数の触手(男根)を我々は自分のものであるかのように感じることができているのだろうか。

これは自分の主観的な感覚でしかいえないんだけど、とりあえず、自分は触手に身体共有感覚を感じてはいない。
まるっきり感じていないことはないんだが、それはとても微弱なものだ。

実は、私が触手ものを見ているとき、身体共有感覚が働いているのは、むしろ犯される女性キャラのほうだ。
まるで、自分が女性のような気分になって、触手に犯されているかのような感覚がする。
そして、それこそが触手ものがもたらす性的な興奮なのではないか、そう考える。

触手という男根に擬せられたものが過剰なまでに溢れていることを考えればこれはとても不思議なことだ。
だから、我々はこう問うてみるべきなのだ。
「その触手はいったい誰のものなのか?」と。

触手の保有者。
見た目から言えば、それはもちろん怪物や宇宙人のものだ。
しかし、ここで問題にしているのはそういうことではない。
我々の触手ものに対する意識の持ちようとでもいうような、もっとメタレベルでの話だ。

私が思うに、触手ものにおいて触手を自分の体のように感じられないのは、触手の数が多すぎるせいである。
女性キャラの両手両足を縛りつける、乳房や局部に這わせる、口に突っ込む。
これらの複数の動作を触手はやってのける。

一見、これは男性の性的な誇大妄想を具現化しているかのように思われる。
つまり、自分の男根でありとあらゆることをいっぺんにしてみたい、そういう可能性の極大化を表現しているのだと解釈するのは妥当だろう。
たしかに、動機の説明としてはそれは正しいのかもしれないが、問題はあまりに数の多い男根に、男は身体共有感覚を働かすことができるのか、ということである。

つまり、普通の男性は複数の男根を保有したことなどないのだ。
それなのに、触手ものでは、複数の男根を保有し、使用するという映像、画像を見せられる。
複数の男根を操り、女体を侵略してみる、という妄想は、それが妄想でしかないがゆえに面白い。
しかし、そこまで非現実的な身体感覚に(たとえそれが脳内で繰り広げられる絵空事でしかないにしろ)脳が追いつける人間もまたそういないだろう。
はっきり言って、我々はそこまで肉体的な想像力が豊かではないのだ。

たとえば、我々は阿修羅のような6本の腕を持つ人間というものを視覚的に想像することができる。それはたやすいことだ。
しかし、視覚的には容易に想像できる阿修羅であるが、これが実際に自分の腕が6本あったらどうかという、仮定的で肉体的実感をともなった想像を働かせるのはとてもむずかしい。
実際に自分の腕が6本あった状態を想像してみてほしい。
実感として腕が6本ある状態を想像できない人がほとんどだろうと思う。

さて、こうしたことを踏まえてみると、触手ものというのはとても興味深いポルノ表現だと思う。
ここでは男根が過剰であるがゆえに、かえって男根に身体共有感覚が働かないという、ねじれた構造が見て取れる。
そして、行き場を失った我々の身体共有感覚は、犯される側の女性キャラへと一体化しようとするのである。

4840214670あずまんが大王 (1)
あずま きよひこ
メディアワークス 2000-02

by G-Tools


4840222924苺ましまろ 1 (1) (電撃コミックス)
ばらスィー
メディアワークス 2003-01-27

by G-Tools



ポルノではないけれども、あずまんが大王や苺ましまろなどの萌え漫画。
これらのなかでは、男性の姿は消去されている。

現実の半分(男)を意図的になかったことにすることによって、読者は漫画のなかの女性キャラに身体共有感覚を働かせざるをえない。
だから、これらを読んでいると、まるで自分が女の子であるかのような感覚になれるわけだ。
特に、あずまんが大王ではそれが巧妙に仕掛けられている印象がある。
木村という変態教師を唯一の男キャラとして登場させ、彼を嫌われ者として描くことによって、読者が男目線で女子キャラを見ることを禁止している。
芸が細かい。

萌え漫画で男という存在を消去するのと同じ効果が、実は触手ものにもあるのではないか。
しかも、それはあるべき存在を消去するという方法論ではなく、存在の局部を過剰に描くことによって、かえって存在との関わりを消してしまうという、二重構造になっているのである。
触手ものが長きにわたって愛されている(?)のも、ただ単に「女体とぬるぬるした触手がからんでいるのってエッチだから」という単純な理由によるものではないのかもしれない。


(注1)「よくメディア論などで使われる「身体共有感覚」という用語がある。」
ごめんなさい。そんな用語は存在してないです。これは私がとある18禁アニメを見ているときに思いついたものなので。
あと、ついつい長文になってごめんなさい。まさか自分でも触手ものでこんな長文書いちゃうとは思わなかった・・・・・・・。

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タモリは本当にお昼向きなのか?-森茉莉のタモリ評

ベスト・オブ・ドッキリチャンネル (ちくま文庫)
森 茉莉
448002932X


この本は森茉莉が週間新潮に1979年から1985年にかけて連載していたコラムを、中野翠が編集したもの。
内容はテレビ評が多く、また毒舌なため、まるでナンシー関のコラムを読んでるような気分になる。
ただ、さすがに20年以上前なんで、知らない芸能人、有名人がかなり出てくる。
たとえば、貴ノ花の名前が出てくるが、これは同じページに大鵬の名前も出てくることで明らかなように、松村が物まねしてるあの貴ノ花ではなく、先代の貴ノ花のこと。
いや、まあ時代を考えてみれば当たり前なんですけどね。

あ、言い忘れてたけど、この森茉莉っていう人は、小説家で森鴎外の娘。

ところで、この本の最初のほうに、タモリについて書かれた文章があって、それがとても面白い。


タモリという役者は髪真黒なのをぴたりと二つに分け、額から顔から全身ぬるぬるに光っていて私は見るや否やマジコンを手に取るや遅しとチャンネルを変えようと必死になる。誰だかが外国にはああいう役者がいるが、日本ではああいうのは層が薄いと書いていたが、薄いにもなんにも一人では層にはならないだろう。
(この後、タモリがドラマで中国人コックの役を演じたことをあげてから)
そのタモリのコックがいい出来で、てらてらぬるぬるの不快(いや)な特質が十二分に発揮された。ドラマをやったのを見たのは初めてなのでわからない。偶然あれがあの役者の適役(はまりやく)だったのかもしれないが、大した出来だった、ということはつまり大した気持ち悪さだったということだ。背中から足の裏まで頭も、全身の皮膚が粟立つ感じになりながらも、その出来を認めないわけにはいかない。いやな役者が出てきたものだ。タモリがああいう役に当たりさえしなければ、こっちの気分は安泰なわけだ。こういうことは言ってはいけないのを判ってはいるが、あの役者をドラマの中で始めて見たのだったらこう毛嫌いすることもなかったろう。


要するにタモリが気持ち悪い、ただただ生理的に受け付けないということを書いている。
まあ、誉めてもいるのだけれど。

タモリと言えば、みのもんたと並んで、お昼の顔、と世間一般にみなされているわけだけど、もともとのタモリは決してお昼向きじゃない、というか、お昼には最も不向きな人間の一人と思われていたんだろうなー、なんてことがこの文章から察せられる。

タモリが出てきた当時というのを私は知らないので、確かなことはいえない。
だけど、この森茉莉の文章や、また4ヶ国語麻雀、寺山修司の物まね、イグアナなどのタモリの持ち芸を考えるに、この人はマニアックで通好みな、どちらかといえば深夜番組向けの人だとみなされていたんだろう。決して一般受けするような人ではないと。
どこで読んだかは忘れてしまったけど、そういう趣旨の文章を読んだ覚えがあるし。

それが、笑っていいともという帯番組に起用されたときというのは、昼という健全な時間帯にタモリを出すという、ミスマッチな感覚があったんじゃなかろうか。
だいいち、オールバックにサングラスという、異様な格好の人間が毎日、昼の12時に陽気な音楽とともにテレビに登場してくるっていうのは、考えてみれば、相当にヘンである。
我々は慣れてしまっているのでなんとも思わないけれども、たとえば日本についたばかりの外国人がいいともを見たら、かなりの違和感を感じるんじゃないか。

その笑っていいともは、26年もの長きに渡って続けられ、もはや我々はこの番組について何も思わないし、何も感じないという境地にまでいたっている。
いいともは面白いのかつまらないのか。
そんな問いはとっくの昔に忘れ去られかえりみられることもない。
いいともは我々の前にただ存在している。
空気の存在について、我々が思いをめぐらすことが少ないように、いいともについて思いをめぐらすものもまた少ない。
ただ、ただ、笑っていいともはそこに存在している。

この森茉莉の文章を読んで、自分が当たり前だと思っていたものが、そもそもの最初は当たり前ではなかったという感覚に気づいて、なんだか面白かった。

ところで、タモリと同じくみのもんたも実はお昼向きじゃないように私は感じている。
だって、真っ黒に日焼けしたみのもんたを見ると、私はなぜかAV男優の日焼けを思いだしてしまうのだ。
つまり、日焼けというのがそのまま「精力」みたいな概念と直結してるようなイメージというか。
まあ、これは勝手な感想だけど。

自分が思うに、本当にお昼の顔にふさわしいのは大和田獏ではないかと。
あの人畜無害な笑顔こそがお昼という、弛緩した時空間にふさわしい。そう思う。
これは、ただ単に私が、お昼にテレビつけるときは、ワイドスクランブル見てるってだけの話だが。

あと、この本のなかで面白かったところはここ。

桃井かおりのマネジャーだった、伊佐早敏男という人物が、(桃井かおりほど、幻滅した女優を私は知らない)と発言した。そうしてマネジャーをやめた。私に言わせると、(伊佐早敏男ほど神経の鈍い男を私は知らない)と、言いたい。神経が鈍い。粗雑である。桃井かおりは初めて知ったが、遅刻常習で又、監督に、水の入ったコップを投げつけたこともあるらしい。だがあの、睡そうな、笑った目や、だらしない感じに開く唇元(くちもと)の笑いは、伊佐早敏男が最初に桃井かおりを見たときに既にあった筈である。目のある人間なら最初のひと目で、<桃井かおり>というものを、見てしまう筈である。誰かにコップを投げつけるような奴だ、ということもわかった筈である。常識という紐で、自分を縛って、おとなしくさせているような人物でないことも、わかった筈である。私は昔、吉田茂が、うようよ集まって来て、写真を撮ろうとしたり、下らぬ質問を浴びせる、藪っ蚊のような記者に腹を立てて、コップの水をぶっかけた話を読んで、彼を好きになったことがある。私には新聞屋が、藪っ蚊のようにつきまとってくる、という経験がないが、年中そういう連中にうるさくつきまとわれれば、癇癪を起こして、コップを投げつけない人の方が、不思議である。


沢尻エリカはちょっとばかし態度が悪かっただけ、倖田來未はちょっとばかし口が悪かっただけのようにしか私には見えないんだけど、あの程度でも涙を流して謝罪してるのを見ると、なんとも詰まらない世の中だ、という気分になる。

うさを晴らすために、久しぶりにこのアルバムを聞いてみるか。

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メッセージ反町隆史 リッチー・サンボラ 中山弘

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↑えっと、念のために言っておきますが、このアルバムをオススメしているのは、完全に冗談ですので、間違っても買わないでください。

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