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バクマン。のヒロインが無個性であることの意味

バクマン。 1
バクマン。 1


バクマンおもしろい。ということで感想。
サイコー(真城最高)とシュージン(高木秋人)という二人の少年が漫画家を目指すっていうのが大まかなストーリーなんだけど、こんなテーマなのに、なぜか少年マンガっぽいというか、ジャンプっぽい読後感があって、そこが不思議。


この点と関連してるんだけど、前から気になっているところがある。
この漫画のなかに亜豆美保という女の子が出てくる。


baku00002.jpg


まあ、平たく言えばヒロインだ。主人公のサイコーが惚れている。なんでも、声優になりたいらしい。
最初は漫画家になるのをためらっていたサイコーが、漫画家になることを決意するのは「自分たちの漫画がアニメ化されて、彼女が声優として出演する」ことを目標としてからだ。
つまり、彼女はストーリーの牽引役になっているわけだけど、この亜豆美保。なんだか、、、、、個性というものが感じられない。


文学的な内面を感じさせないし、かといって、萌えキャラ的なケレン味があるわけでもない。
「恥ずかしがりやでかわいい女の子」というテンプレにそった言動ばかり。男が求める理想の女の子像の最大公約数。


この個性のなさって、ただ単に人物造型が未熟なだけなんだろうか?
そんなわけない。この個性のなさっていうのは、明らかに計算してやってるんだと思う。


というのも、1巻のなかでシュージンが亜豆美保をこう評している。


亜豆は計算じゃなく
素で女の子してるんだ

(中略)

声優目指してるのだって
今の女の子にありがちな夢を自然にチョイスして
その夢見る乙女を最大限に
楽しんでるくらいにしか思えない


「女の子だから?」(とサイコーが尋ねる)


そう「女の子だから」がわかってるんだ
可愛いお嫁さんになるのが
女の一番の幸せって生まれながらに思っている



これはたぶん、キャラ設定の文章をそのまま書いてるんじゃないかと思うんだけど、亜豆美保はかわいい「女の子」なのである。それ以上でもそれ以下でもない。


そして、彼女の物語上の役割とはなんだろう?
ニンジンだ。言い方は悪いかもしれないけど、彼女は主人公の鼻先にぶら下げられたニンジンなのだ。
ニンジンに個性は必要だろうか?ニンジンはただニンジンとしての役割を果たせばいい。
むしろ、無個性であるほうが、ニンジンであることの意味が明らかになっていい。


とでもいうような、ある種の割り切りかたを感じた。
そして、この割り切りが、この漫画にスピード感を与えているのだし、少年マンガっぽさ、ジャンプっぽさを感じさせる一つの要因なんじゃないかなあと思った。


あと、気になるのは最近出てきたアニメのプロデューサー(なのかな?)。オーディションに来た亜豆を顔だけで合格にしたエロ爺。
あいつには期待してる。主にピロー的な意味で。正直に言うと、2009年、個人的にもっとも期待をかけているのがあの爺。

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手塚治虫的アニメの作りかた

4197201796SF Japan VOL.3 冬季号 手塚治虫スペシャル
徳間書店 2001-12

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古本屋でたまたま見つけて何の気なしに購入したムック。


ここには手塚治虫の漫画をもとにした小説が何篇か収められている。小説のほうはまだ読んでないんだけど、その他に、永井豪、寺田克也、小松左京らに、手塚治虫についてインタビューした記事がいくつかある。
そのなかで抜群に面白かったのが、杉井ギサブロー(タッチ、銀河鉄道の夜)、富野由悠季(海のトリトン、ガンダム)への対談形式のインタビュー。


これがなぜ面白かったのか?
一言で言えば、この二人だけ、手塚治虫を誉めてなかったからだ。
まあ、誉めていないというのは、ちょっと語弊があって、もちろん、誉めている部分もあるんだけど、他の人みたいに「手塚先生は神様!」みたいなトーンではぜんぜんない。


この差異がどこから来るかというと、この二人はアニメとの関わりで手塚治虫を見ているからだと思われる。他の人、たとえば永井豪なんかは、当然、漫画というフィルターを通して、手塚治虫を見ているので、インタビューを読み比べてみると、そこらへんの空気感があきらかに違っている。


この二人は虫プロにいたときの話をしているんだけど、私は虫プロについて大雑把なところしか知らなかったので、その具体的な話がとても面白かった。


ということで、その部分を抜き出してみる。



ーーー杉井さんは、手塚先生のマンガのほうはよく読まれていたんですよね。それがきっかけで、虫プロに入られたんですか?


杉井 もちろん、小さい頃から大ファンで、マンガはほとんど読んでいましたけど、僕はもともと、小学校のころからアニメーションが好きで、だから最初は東映に入ったんですよ。だけど『安寿と厨子王丸』なんてつくってるんで、何だつまらないや、というので勝手に飛び出しちゃってね。そのとき、先生がアニメをやるという話を聞いて、それは面白そうだというので手塚先生のところに行ったんです。というのも、手塚先生がアニメーションをやるということは、ディズニーのようなものをやると思ったんですよ。なら、これは触ってもいいかなと。もっとも、僕はディズニーがあんまり好きじゃないんですが(笑)。でも、さしあたり日本でディズニーをできるのは手塚先生かなというのが、ほんと正直、素直にあって。ただ、いざ入ってみると、この予想は大きく外れました。


ーーーそれはどういう・・・・・?


杉井 僕は『アトム』の第一話では原画をやっているんですが、もう忘れもしない僕が描いたアトムのワンカット目です。動画紙に先生の絵でレイアウトがしてあって、「アトム驚く、二秒」と書いてある。で、セリフが横に書いてあって、「アトム、ハッとして」と、アトムの額に汗が流れていてね。それで、僕は「アトムが驚いてハッとなる」カットだということで、驚いた顔の、その前の原画を一生懸命に描いていたんですよ。すると、先生がいきなり後ろにきて、「ギッちゃん、何やってんですか?」と。「その動きはいりません」「は?」「驚きっぱなしの止めの絵でいいです」という話になってね(笑)。


富野 それはすごい(笑)。



たしかに、これはすごい(笑)。


この他にも、アトムが汗を流しているところを描こうとしたら「(自分の漫画では汗が動いていないからという理由で)動かさなくていい」と言われた話、大群衆が走るシーンは四枚の絵だけ描いて、それを繰り返すことで走ってるように見せたという話を杉井ギサブローはしてた。


ここで語られているのは、いわゆるリミテッドアニメ的な手法なわけだけど、この手塚治虫の『発明』に対して、杉井ギサブローはこう語っている(*1)。

杉井 僕は、そのちょっと前まで、東映でフルアニメーションやってますよね。だから、こんなものはアニメになるのかと思いましたよ。二秒間驚いてて、目がパチパチとして、口でパカパカとセリフをいって、汗も動かさない。正直、こんなものはいくらつくったって絶対まともな映像にはならんと思って、それこそ、手塚先生に途中で「こんなものはアニメーションじゃない」といったこともあるんです。そうしたら手塚先生が名セリフ「ギッちゃん、これはアニメーションじゃありません、テレビアニメです」と言ったんですよ。「テレビアニメってどういうことですか」と聞いたら「いや、ギッちゃん、動きを動きで見せていくのがアニメーションだというのであれば、僕は子どもたちに物語を見せたい。その物語を補足するためのアニメーションであればいい。そうするとギッちゃんがやろうとしていたことは、動きの説明にすぎないですよね。歩いてるのに止まっては子どもが見ても変だから、それは歩かせてほしいけど、驚いててセリフがあるところで、こんなアクションというのはいらないんじゃないですか。ですから、そこはもう止めてよろしい」と。そして実際に、音楽が付いてちゃんとできあがったときに、作品になってるのにはびっくりしましたよ。アニメに対するすべての思考がひっくり返りました。なまじフルアニメーションなんかやってた者には絶対に考えられないことだった。プロの盲点というか、もし手塚先生がディズニーのようになりたいと思ってたら、あんな発想はできない。でも逆に言えば、手塚先生が幸いなことに(笑)、ウォルト・ディズニーをアニメーションでは追ってなかったからこそ、『アトム』ができたといえるのではないでしょうかね。


ということで、杉井は手塚治虫の『テレビアニメ』を評価してはいる。
しかし、こうした評価は別として、アニメの演出家としては手塚治虫は二流だと思ってたみたいだ。


まあ、そりゃ当たり前の話で、アトムが驚くカットで「驚きっぱなしの止め絵でいい」なんていう人が一流の演出家のわけがない。私はアニメの演出とかはよくわからないけど、これが演出以前のレベルでダメだってことくらいはわかる。
この対談のなかで、富野由悠季もやたら不思議がっている。あれだけ映画が好きで、また漫画で才能を発揮した手塚治虫が、なぜ映画(アニメも含めた映像表現の意味)ではからっきしダメだったのかと。


杉井 そもそも僕が東映をやめたのは自分で映画をつくりたいと思ってたからなんで、いまだから言えますけど、映画の演出に関してはね、手塚先生よりも僕のほうがプロだという意識はすごくありましたよ。だから、映画のことを教えるのは僕だと。もちろん、作家としての才能は別ですが(笑)。


富野 いま、ようやくわかった。手塚先生が一度だけ僕のことをほめてくれたことがあるんです。「うん、富野氏のフィルムは品がいいからね」って。その意味が当時は全然わかんなかったんだけど、いまの話で全部わかった。だって僕はフィルムをつなぐときに、先生みたいに杜撰じゃないから。動きの気分を受けて切るとか、アクションカットをどういうときに使うかということは、先生以上にきちんとやったから、それは品よく見えるよと、それだけのことだったわけだ(笑)。


なんか、この二人、ぶっちゃけすぎで、時々インタビュアーが「それはそうだけど、やっぱり手塚先生は偉大ですよね」みたいに話を軌道修正するところがあったりするのがおもしろい。


ついでなんで、もっと、ぶっちゃけてるところがこれ。

杉井 僕にとって手塚先生が後々までいちばん印象的だったのは、『アトム』なんかで、みんなもうメチャクチャに似ても似つかないアトムを描いたりしても、一度も手塚先生が「キャラクターが違う」と言わなかったことなんだよね。いまのマンガ家さんでしたら、原作と違うとか、僕のマンガと違うとか言いますけど、手塚先生は一度も言ったことがないんです。それが不思議でしょうがなくてね。


富野 言われてみればそうだった。


杉井 ただ、それで段々年数がたってきたら、いや、この人はアニメをまじめにやる気はないからなんだと気づきました。さっきも出ましたけど、当時もうマンガで全部、自分の仕事を仕上げてしまっているから、アニメはもう遊びでいいんだと。僕は正直、恨んで言うのじゃないけれど、アニメに賭けていたわけですから、遊びにつき合わされちゃあたまんないよなというのがありましたね。それは言わなかったですけど。


ということで、読んでいて面白かったところだけを抜いてみた。
これだけ読むと、手塚治虫批判ばかりしてるように見えるかもしれないけど、これはあくまで漫画家としての手塚治虫は偉大だという前提をふまえた上で二人は話しているので、そこは誤解しないでください。


(*1)リミテッドアニメ自体は手塚治虫が発明したわけではない。

[関連リンク]

アニメ監督ってなんだ!  ~杉井ギサブロー監督/りんたろう監督~対談

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タモリは本当にお昼向きなのか?-森茉莉のタモリ評

ベスト・オブ・ドッキリチャンネル (ちくま文庫)
森 茉莉
448002932X


この本は森茉莉が週間新潮に1979年から1985年にかけて連載していたコラムを、中野翠が編集したもの。
内容はテレビ評が多く、また毒舌なため、まるでナンシー関のコラムを読んでるような気分になる。
ただ、さすがに20年以上前なんで、知らない芸能人、有名人がかなり出てくる。
たとえば、貴ノ花の名前が出てくるが、これは同じページに大鵬の名前も出てくることで明らかなように、松村が物まねしてるあの貴ノ花ではなく、先代の貴ノ花のこと。
いや、まあ時代を考えてみれば当たり前なんですけどね。

あ、言い忘れてたけど、この森茉莉っていう人は、小説家で森鴎外の娘。

ところで、この本の最初のほうに、タモリについて書かれた文章があって、それがとても面白い。


タモリという役者は髪真黒なのをぴたりと二つに分け、額から顔から全身ぬるぬるに光っていて私は見るや否やマジコンを手に取るや遅しとチャンネルを変えようと必死になる。誰だかが外国にはああいう役者がいるが、日本ではああいうのは層が薄いと書いていたが、薄いにもなんにも一人では層にはならないだろう。
(この後、タモリがドラマで中国人コックの役を演じたことをあげてから)
そのタモリのコックがいい出来で、てらてらぬるぬるの不快(いや)な特質が十二分に発揮された。ドラマをやったのを見たのは初めてなのでわからない。偶然あれがあの役者の適役(はまりやく)だったのかもしれないが、大した出来だった、ということはつまり大した気持ち悪さだったということだ。背中から足の裏まで頭も、全身の皮膚が粟立つ感じになりながらも、その出来を認めないわけにはいかない。いやな役者が出てきたものだ。タモリがああいう役に当たりさえしなければ、こっちの気分は安泰なわけだ。こういうことは言ってはいけないのを判ってはいるが、あの役者をドラマの中で始めて見たのだったらこう毛嫌いすることもなかったろう。


要するにタモリが気持ち悪い、ただただ生理的に受け付けないということを書いている。
まあ、誉めてもいるのだけれど。

タモリと言えば、みのもんたと並んで、お昼の顔、と世間一般にみなされているわけだけど、もともとのタモリは決してお昼向きじゃない、というか、お昼には最も不向きな人間の一人と思われていたんだろうなー、なんてことがこの文章から察せられる。

タモリが出てきた当時というのを私は知らないので、確かなことはいえない。
だけど、この森茉莉の文章や、また4ヶ国語麻雀、寺山修司の物まね、イグアナなどのタモリの持ち芸を考えるに、この人はマニアックで通好みな、どちらかといえば深夜番組向けの人だとみなされていたんだろう。決して一般受けするような人ではないと。
どこで読んだかは忘れてしまったけど、そういう趣旨の文章を読んだ覚えがあるし。

それが、笑っていいともという帯番組に起用されたときというのは、昼という健全な時間帯にタモリを出すという、ミスマッチな感覚があったんじゃなかろうか。
だいいち、オールバックにサングラスという、異様な格好の人間が毎日、昼の12時に陽気な音楽とともにテレビに登場してくるっていうのは、考えてみれば、相当にヘンである。
我々は慣れてしまっているのでなんとも思わないけれども、たとえば日本についたばかりの外国人がいいともを見たら、かなりの違和感を感じるんじゃないか。

その笑っていいともは、26年もの長きに渡って続けられ、もはや我々はこの番組について何も思わないし、何も感じないという境地にまでいたっている。
いいともは面白いのかつまらないのか。
そんな問いはとっくの昔に忘れ去られかえりみられることもない。
いいともは我々の前にただ存在している。
空気の存在について、我々が思いをめぐらすことが少ないように、いいともについて思いをめぐらすものもまた少ない。
ただ、ただ、笑っていいともはそこに存在している。

この森茉莉の文章を読んで、自分が当たり前だと思っていたものが、そもそもの最初は当たり前ではなかったという感覚に気づいて、なんだか面白かった。

ところで、タモリと同じくみのもんたも実はお昼向きじゃないように私は感じている。
だって、真っ黒に日焼けしたみのもんたを見ると、私はなぜかAV男優の日焼けを思いだしてしまうのだ。
つまり、日焼けというのがそのまま「精力」みたいな概念と直結してるようなイメージというか。
まあ、これは勝手な感想だけど。

自分が思うに、本当にお昼の顔にふさわしいのは大和田獏ではないかと。
あの人畜無害な笑顔こそがお昼という、弛緩した時空間にふさわしい。そう思う。
これは、ただ単に私が、お昼にテレビつけるときは、ワイドスクランブル見てるってだけの話だが。

あと、この本のなかで面白かったところはここ。

桃井かおりのマネジャーだった、伊佐早敏男という人物が、(桃井かおりほど、幻滅した女優を私は知らない)と発言した。そうしてマネジャーをやめた。私に言わせると、(伊佐早敏男ほど神経の鈍い男を私は知らない)と、言いたい。神経が鈍い。粗雑である。桃井かおりは初めて知ったが、遅刻常習で又、監督に、水の入ったコップを投げつけたこともあるらしい。だがあの、睡そうな、笑った目や、だらしない感じに開く唇元(くちもと)の笑いは、伊佐早敏男が最初に桃井かおりを見たときに既にあった筈である。目のある人間なら最初のひと目で、<桃井かおり>というものを、見てしまう筈である。誰かにコップを投げつけるような奴だ、ということもわかった筈である。常識という紐で、自分を縛って、おとなしくさせているような人物でないことも、わかった筈である。私は昔、吉田茂が、うようよ集まって来て、写真を撮ろうとしたり、下らぬ質問を浴びせる、藪っ蚊のような記者に腹を立てて、コップの水をぶっかけた話を読んで、彼を好きになったことがある。私には新聞屋が、藪っ蚊のようにつきまとってくる、という経験がないが、年中そういう連中にうるさくつきまとわれれば、癇癪を起こして、コップを投げつけない人の方が、不思議である。


沢尻エリカはちょっとばかし態度が悪かっただけ、倖田來未はちょっとばかし口が悪かっただけのようにしか私には見えないんだけど、あの程度でも涙を流して謝罪してるのを見ると、なんとも詰まらない世の中だ、という気分になる。

うさを晴らすために、久しぶりにこのアルバムを聞いてみるか。

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↑えっと、念のために言っておきますが、このアルバムをオススメしているのは、完全に冗談ですので、間違っても買わないでください。

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映像作品は悪役の存在を必要としやすい

えっと、今回は前回の続きみたいなもんです。

アニメ版fate/stay nightがイマイチだったのは、「fateは文学」だったからかもって話

前回も触れたこの本を読んでたら、別のことに思い至ったんで、今回はそれを書いておこうかと。

4750000655ハリウッド・リライティング・バイブル (夢を語る技術シリーズ)
リンダ シガー Linda Seger フィルム メディア研究所
フィルムアンドメディア研究所 2000-02

by G-Tools


まずは前回も取り上げた、この部分。

コンフリクトにまつわる問題は、小説を脚色する際に、特に頻繁に起こる。ほとんどの小説はダイアローグ主体であり、登場人物の心理へと読者を誘う。我々は小説を読むなかで、登場人物がどのように考えるのか、何を感じるのか、何に価値を置くのか、どう問題に取り組むのかといったことを学び、登場人物の抱く不安感やこだわり、関心事の中から何らかのメッセージを見つけ出す。こういったことが登場人物をより魅力的にし、読者に読む楽しみをもたらすのであるが、映画に翻案する際には問題を引き起こすことになる。小説はリレーショナル・コンフリクトよりインナー・コンフリクトをより頻繁に使う傾向にある。


つまり、小説と映画では、コンフリクト(葛藤)を扱うときに、手法上の差異があるっていう話。
この小説と映画の部分を、エロゲとアニメに代入して「エロゲ原作のアニメは脚色が難しいんだろーなー」みたいなことを前回書いてみた。。

また、この後に、こんな文が出てくる。

小説に忠実であるとは

・小説の中で暗示されているに過ぎないコンフリクトを表面化させる
・それぞれのアクトでコンフリクトが明確になるようシーンを再構築する
・コンフリクトがストーリーを通じて1本の筋道を持つよう、それぞれのシーンに質感を持たせる

といったことを意味する。


私は脚色の方法論みたいなのにまったくの無知だから「へー、なるほどー」なんて感心ながら読んでた。
しかし、こういうのは実例を思い浮かべながらじゃないとよく理解できないもんだ。
なので、なんか良い例がないもんかと頭のなかを検索してみたら、思い浮かんだのがこの映画。

ショーシャンクの空に
ショーシャンクの空に

この映画がとてもよく出来てるってのは観た人なら、ほとんどが同意してくれると思う。
つーか、個人的に大好きなんですけど、この映画。

これはスティーヴン・キングの小説 『刑務所のリタ・ヘイワース』 が原作。
もともとは、以下の4つの中篇小説を一冊にまとめた形式で発売されている。

刑務所のリタ・ヘイワース 
ゴールデンボーイ 
スタンド・バイ・ミー 
マンハッタンの奇譚クラブ 

これらの小説って、この映画を観る前に全部読んでいたんだけど、実はこの4つの小説のなかで、いちばん印象が薄いのが「刑務所のリタ・ヘイワース」だった。
つまり、この映画の原作がもっとも地味に感じた。

スタンド・バイ・ミーは有名すぎるのでいまさら言うまでもないだろうけど、ゴールデンボーイには元ナチス軍人の老人と少年が出会って少年が狂っていくっていうおぞましさがあって印象に残ったし、マンハッタンの奇譚クラブはこれまた異常なモチーフがありつつも感動させられた。

しかし、刑務所のリタ・ヘイワースは「昔、こんな意志の強い男がいたんだよ」っていう昔語りに終始し、それはそれでいいんだけど、どうもあっさりしすぎているように思った。

この4つの小説のなかでは 

刑務所のリタ・ヘイワース 
ゴールデンボーイ 
スタンド・バイ・ミー

この3つが映画化されている。
ゴールデンボーイは未見なので、これは置いておくとして、スタンド・バイ・ミー。
これはほぼ小説どおりに映画化されてるんで、映画と小説の差異ってところでは特に言うことはない。

しかし、スタンド・バイ・ミーとは違って、小説「刑務所のリタ・ヘイワース」が映画「ショーシャンクの空に」に変換されるときには、かなりの変更点が加えられている。
その変更がこの映画を成功させたところだろうし、また、その変更はこの物語を映画という映像メディアに最適化することを目的としているように感じられる。

小説と映画を比べて、もっとも目立つ変更点というのは刑務所長の悪役化だ。
小説では、単なる脇役にすぎなかった刑務所長が、映画では利己的で金にがめついくせに建前的な道徳を振りかざすろくでもないヤツとして描かれている。
映画のクライマックスでも、この所長が主人公の障害として強く印象づけられ、その障害を主人公が乗り越えることによって、物語のカタルシスがもたらされている。

小説に忠実であるとは

・小説の中で暗示されているに過ぎないコンフリクトを表面化させる
・それぞれのアクトでコンフリクトが明確になるようシーンを再構築する
・コンフリクトがストーリーを通じて1本の筋道を持つよう、それぞれのシーンに質感を持たせる

といったことを意味する。


この小説が映画化されるにあたって、まさしくこの通りの手順で変更されてるってのに気づいてなんか感心してしまった。
刑務所が自由を束縛されたろくでもない場所でそこから逃れたいという、主人公の内面的なコンフリクトを刑務所長を徹底的に悪役にすることで小説の中で暗示されているに過ぎないコンフリクトを表面化させている。

・それぞれのアクトでコンフリクトが明確になるようシーンを再構築する
・コンフリクトがストーリーを通じて1本の筋道を持つよう、それぞれのシーンに質感を持たせる


この二つも刑務所長悪役化のおかげでかなり明確になってる。

つまり刑務所長を悪役にすることで、内面的なコンフリクトを視覚化することに成功しているわけだ。
本来は眼に見えない心の中のネガティブな部分を、悪役として外在化することで観客にわかりやすくしてる。
そして、このわかりやすい悪役の存在によってこの映画は成功している。

すべての映像メディアが悪役の存在を必要とするわけではもちろんないけれども、そういう視覚的なわかりやすさを求めやすい傾向ってのはたしかにある。
こういう傾向ってのが映像作品の欠点なのかどうかってのは正直わからない。
たとえば、大塚英志が「9・11テロ以降のアメリカがハリウッド映画の文脈に沿って行動している」という趣旨のことを書いているけれども、この点に関しては自分にはよくわからないし、実感もわかない。
実感のわかないことについては、とりあえず置いておくことにしてるので(無視するとかじゃなくて、とりあえず置いておくって感じで)、まあ、ここもとりあえず置いておく。
ただ、前の記事でも書いたとおり、表現メディアによって必要とされる要素の差異ってのは確かにあるように思う。

小説(やエロゲー)では内面的なコンフリクトが長々と語られてもそう苦にはならない。
エロゲーって注意してみると、かなり回想シーンが多かったりするし。

けど、映像作品(映画やアニメ)でそれをやられると、やっぱり辛い。
だから、そういうときは登場人物の一人を悪役にして、内面的なコンフリクトを視覚的に明確化してみるってのも一つの手なんじゃないかと思った。

たとえば、これは現在放映されているH2Oというエロゲ原作のアニメだ。








画面左の女の子と言い争うシーンなのであるが、女の子のキャラデザインが同一なので視覚的にコンフリクトを表現できているとはいいがたい。

なので、これをこんなふうに、いかにも悪役然としたキャラと取り替えてみる。











エロゲ原作のアニメはダイアローグ中心で内面的なコンフリクトを描きがちであることは、以前述べたが、こうやって悪役を配することによって視覚的にコンフリクトを表現できるのではないだろうか。

なんか左側の人はあきらかに違う世界の住人だし。
とりあえず違和感を引き起こすことにだけは成功してるといっていい。

しかし、このH2Oっていうアニメは、福本キャラを代入なんていう荒業を使わなくても、二話目にして、一人の女の子が「ゴキブリ、ゴキブリ」と級友たちからののしられ、

あげくには、






汚い汚い便所水(セリフのまま)を引っ掛けられるという、イジメが開始されているので、視覚的なコンフリクトはすでに十分すぎるほど表現されてはいる。

話の展開はどろどろしていて、なかなか面白そうではある。
ただし、まだ二話目だというのに、








作画がびみょーなのはいかがなものだろうか。
びみょーっていうか、true tearsなんかに比べると、はっきりとヒドいんだが。

正直なところ、このアニメを見続けることができるのかどうかには、ちょっとしたコンフリクト(葛藤)を感じずにはおれない。






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アニメ版fate/stay nightがイマイチだったのは、「fateは文学」だったからかもって話

古本屋で買ってから、1年以上、読みもせず放っておいた本。
本棚でホコリかぶってた。

4750000655ハリウッド・リライティング・バイブル (夢を語る技術シリーズ)
リンダ シガー Linda Seger フィルム メディア研究所
フィルムアンドメディア研究所 2000-02

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今年は本をもっと読むことを目標にしてるので、本にかかったホコリを吹きはらってこれを読んでみた。

著者は「ハリウッドでスクリプト(脚本)ドクターと呼ばれる著名なコンサルタント」らしい。
簡単に言えば、映画の脚本のダメ出しする仕事ってこと(でいいのかな?)。

で、この本は映画の脚本を書くとき、またはリライティングするときの手助けを目的として書かれている。
映画の脚本というものは、何度もリライトする(書き直す)のが当たり前らしい。
本の題名も「リライティング」となってるんだけど、別にリライトだけにこだわって書かれているわけじゃなく、全般的な脚本の書き方についての本のように感じた。

ジョーズ、トッツィー、スター・ウオーズ、バック・トゥー・ザ・ヒューチャー、SHALL WE ダンス?といった実例を出して、アイデアのまとめ方から、プロットの構成の仕方、キャラクターの造形などといった、脚本をどのように作っていけばいいのか、ということについて詳細に書かれている。

で、この本のなかには「脚本ってのはこんなふうにすると良くなるよ」ってなことがいろいろと書かれてるわけだけど、この「良くなる」っていうのは別に映画の芸術的価値を高められるという意味じゃない。
脚本をどう改良すれば興行的にヒットする映画が作れるか、っていう視点で書かれてる。
どうすれば観客にストーリーを理解させることができるのか、どうすれば観客に驚きを与えられるのか、この本が扱ってるのはそういう脚本の商業的な価値を高めるための方策についてだ。

こういう本を読むのって初めてだったんだけど、どうも「当たり前のことを専門用語を使って説明してる」っていう感じを与えるところが結構あった。

たとえば、

フォーシャドゥイングとペイオフを使うときに情報を巧妙にカムフラージュし、観客の驚きを喚起しただろうか。


この一文を読んで意味のわかる人ってほとんどいないと思う。
だけど、「フォーシャドゥイング」ってのがいわゆる伏線のことで、ペイオフってのが伏線を回収することの意味だってことさえわかりさえすれば、この文はごく当たり前のことを書いてるにすぎない。

そんなわけで、あまり面白くないところは飛ばし読みしていったんだけど、この本のなかで個人的に面白く感じたところが二つあった。

一つ目が「説明ゼリフと回想シーンはあまり使わないほうがいい」ってとこ。

とりあえず、ここでは回想シーンについて触れられたところを抜粋してみる。

回想もまた、多くの場合、劇的ではなく、単に情報をもたらすためのものだ。回想はたいてい、状況やバック・ストーリー、登場人物に関する情報提供のために使われる。よくライターは回想を使ったことを「登場人物についてより多くの情報を伝えようと思い、過去の回想シーンが現在の状況を説明するのに最適だと思った」と説明する。しかし、回想を使ってモチベーションを説き明かそうとしても、うまくいくことは少ない。これにはいくつかの理由がある。まず第一に、モチベーションは登場人物を後押しするものでなくてはならないからだ。回想は、出来事の流れを止めてしまうという性質を持つ。その上、現在よりも、遠い過去にモチベーションを見いだそうとする。(中略)また、回想はディテールを強調するものであり、劇的な瞬間を作り上げるものではない。登場人物の心の奥にひそむ心理を表面化してくれるが、現在の出来事に直接的な影響を及ぼすことはない。


この著者は「回想シーンを絶対に使うな」とは言ってない.
だけど、回想シーンを使うのなら必要不可欠なところで使うべき、とは書いてる。

この文は映画について書かれたものなんで、TVアニメや漫画にそのまま当てはめるのもどうかと思うけど、そこをあえて当てはめてみると、たとえばNARUTO。

アレって回想シーンがかなり多くて、見ててイライラすることが多い。
NARUTOを冗長に感じるのは、自分だけではないと思う。

もちろん、TVアニメや連載漫画はどうしたって中だるみするもんだから、無駄なシーンをとことんまで省いた映画とは一概に比べることはできないけど、とりあえずイラっとくるのは確か。

そして、面白かったところのもう一つが、コンフリクト(葛藤)について述べられたところ。
*以下で使われてるリレーショナル・コンフリクトというのはたとえば主人公と悪役のあいだのような登場人物間で起こる争いを指し、またインナー・コンフリクトってのは登場人物の内面での葛藤のことを指す(らしい)。

コンフリクトにまつわる問題は、小説を脚色する際に、特に頻繁に起こる。ほとんどの小説はダイアローグ主体であり、登場人物の心理へと読者を誘う。我々は小説を読むなかで、登場人物がどのように考えるのか、何を感じるのか、何に価値を置くのか、どう問題に取り組むのかといったことを学び、登場人物の抱く不安感やこだわり、関心事の中から何らかのメッセージを見つけ出す。こういったことが登場人物をより魅力的にし、読者に読む楽しみをもたらすのであるが、映画に翻案する際には問題を引き起こすことになる。小説はリレーショナル・コンフリクトよりインナー・コンフリクトをより頻繁に使う傾向にある。


この後、映画はダイアローグ主体になってはいけない、みたいなことが書いてある。
なんか、ここは「モノローグ主体になってはいけない」の間違いじゃないか、って感じがしたんだけどダイアローグらしい。
言葉でコンフリクトを表現するよりも、視覚的にコンフリクトを表現したほうが、映画的にはいいそうだ。

で、この二箇所を読んでたら、自然とある作品が頭に浮かんできた。

B0001LV6I8Fate/stay night 通常版
TYPE MOON 2004-03-26

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まあ、エロゲーなんですけど・・・。
というか、ここは話の流れ上、ノベルゲームっていう言葉を使ったほうがいいですね、はい。
上記した小説に関する部分の抜粋って、そのまんまノベル(小説)ゲームに当てはめることができるわけだし。

ということで、このfate/stay nightっていうノベルゲームなんだけども、これには回想シーンがやたらと出てくる。
たとえば、士郎っていう主人公は夜ごとに夢を見るんだけど、それが過去の回想。
過去にどんな惨劇が起こり、その時にどう感じたのかってことが夜ごと繰り返される。
たしか、このゲームの作中時間は15日くらいだったと思うんだけど、そのほとんどの夜で夢を見る。つまり、回想シーンがある。

また、セイバーなどの女子キャラの回想シーンも多い。
たしか、遠坂ルートになると、夜ごとの夢が遠坂の回想になるんだっけか。なんか、ここらへん記憶が曖昧だけど。

このゲームでは、上記した本にあるとおり、回想シーンが登場人物のモチベーションとインナー・コンフリクトを説明する役割を担ってる。
「fateは文学」という、誉めてるんだかけなしてるんだかわかんない言い方があるけれども、この回想シーンがfateの文学性を担保してると言っていい。
ここで登場人物の内面描写が深化してるって意味で。

ただ、この回想シーンの多さってのはちょっとしつこい印象すら与える。
実際、私は士郎の回想シーンになると「またか」と思って、飛ばし読みしてた。

「回想は、出来事の流れを止めてしまうという性質を持つ」
確かに、そう。

これは別に、映画の尺度を用いてfateをおとしめようとしてるわけじゃない。

2時間以内にまとめなければいけない映画と、プレイ時間が数十時間に及ぶのが普通(fateの場合だと平均攻略時間が60時間らしい)のノベルゲーム。
リレーショナル・コンフリクト中心の映画とインナー・コンフリクトとダイアローグ中心のノベルゲーム。(もっとも、fateにもリレーショナル・コンフリクトはちゃんとあるけど)
そもそものメディアの属性が違うんだから、同じ土俵に乗せることはできない。

fate/stay nightのなかで、何度も繰り返される回想シーンってのも、ノベルゲームという媒体だからこそ成り立っているわけだろうから、それはそれでいい。

ただ、これをアニメで表現しようとしたときに、アニメというメディアの特性みたいなもんと、fateの持つ文学性が齟齬をきたしてしまってるような印象は受ける。

B000EBCKM6Fate/stay night 1<通常版>
杉山紀彰 川澄綾子 植田佳奈
ジェネオン エンタテインメント 2006-03-29

by G-Tools


このアニメ版fateって、私には退屈だった。
どうも感情移入しにくくて、主人公が一人で突っ走ってくような印象しか持てなかった。
「主人公のモチベーションが描けてない」っていうアニメ評をどこかで見たんだけど、たしかにそういう感じ。

このアニメを見たのがだいぶ前のことなんで、ちょっと記憶が定かじゃないんだけども、たしか回想シーンはかなり少なかったように思う。
少なくともゲームにあるような執拗なまでの回想の繰り返しはなかった。
ここらへんが、主人公のモチベーションを描けていない理由の一つになってるんだろうと思う。

「回想は、出来事の流れを止めてしまうという性質を持つ」という理由で、アニメでは回想シーンを少なくしてるんだと思うけど、それがこのアニメの欠点になってしまっている。
しかし、原作に忠実に回想シーンを頻出させていたら、今度は逆に「出来事の流れを止めてしま」って、それはそれで上手くいかなかったのかもしれない。

このアニメはほとんどセイバールートなので、エロゲーをアニメ化するときにつきまとう「複数の時系列をどう処理するか」っていう問題には悩まされなかったはず。
それなのに、このアニメがいまいちだったのは、士郎やセイバーなどのインナー・コンフリクトをうまく描けていないせいだ。
その方法論的な原因の一つは回想シーンの少なさなんだろうけど、もっと抽象的に言えば「fateは文学」だったからだと私は思う。
文学、つまりはインナー・コンフリクトが多いせいで、映像化するときに、独特の困難があったんだと、そう思う。

漫画が原作であれば、こういう困難もそうないだろうけど、ライトノベルやエロゲーをアニメ化するには、脚本的にはいろんなレベルの難しさがあるんだろう。
エロゲーは特に難しそう。

ただ、こうやって考えたときに、アニメが「原作に忠実だから良い」だとか「原作に忠実じゃないからダメ」っていうのは、ほとんど意味のない評価軸だ。
なぜなら、それは表現メディアの特性を無視しているわけだから。

ものすごく単純にアニメをそれ単体で見て、面白かったとか詰まらなかったとか評価すればいいんだと思うんだけど、こういうのはたぶんマイノリティーなんだろうなあ。

しかし、今さらアニメfateを語るってのもどうかと。
さすがに忸怩たるもんがちょっとばかりあったりするんですけど。
まあ、いっか。

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