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久しぶりにI"sを読んでみたら、あれ、伊織の顔ってこんなんだっけか?と思った





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バクマン。のヒロインが無個性であることの意味

バクマン。 1
バクマン。 1


バクマンおもしろい。ということで感想。
サイコー(真城最高)とシュージン(高木秋人)という二人の少年が漫画家を目指すっていうのが大まかなストーリーなんだけど、こんなテーマなのに、なぜか少年マンガっぽいというか、ジャンプっぽい読後感があって、そこが不思議。


この点と関連してるんだけど、前から気になっているところがある。
この漫画のなかに亜豆美保という女の子が出てくる。


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まあ、平たく言えばヒロインだ。主人公のサイコーが惚れている。なんでも、声優になりたいらしい。
最初は漫画家になるのをためらっていたサイコーが、漫画家になることを決意するのは「自分たちの漫画がアニメ化されて、彼女が声優として出演する」ことを目標としてからだ。
つまり、彼女はストーリーの牽引役になっているわけだけど、この亜豆美保。なんだか、、、、、個性というものが感じられない。


文学的な内面を感じさせないし、かといって、萌えキャラ的なケレン味があるわけでもない。
「恥ずかしがりやでかわいい女の子」というテンプレにそった言動ばかり。男が求める理想の女の子像の最大公約数。


この個性のなさって、ただ単に人物造型が未熟なだけなんだろうか?
そんなわけない。この個性のなさっていうのは、明らかに計算してやってるんだと思う。


というのも、1巻のなかでシュージンが亜豆美保をこう評している。


亜豆は計算じゃなく
素で女の子してるんだ

(中略)

声優目指してるのだって
今の女の子にありがちな夢を自然にチョイスして
その夢見る乙女を最大限に
楽しんでるくらいにしか思えない


「女の子だから?」(とサイコーが尋ねる)


そう「女の子だから」がわかってるんだ
可愛いお嫁さんになるのが
女の一番の幸せって生まれながらに思っている



これはたぶん、キャラ設定の文章をそのまま書いてるんじゃないかと思うんだけど、亜豆美保はかわいい「女の子」なのである。それ以上でもそれ以下でもない。


そして、彼女の物語上の役割とはなんだろう?
ニンジンだ。言い方は悪いかもしれないけど、彼女は主人公の鼻先にぶら下げられたニンジンなのだ。
ニンジンに個性は必要だろうか?ニンジンはただニンジンとしての役割を果たせばいい。
むしろ、無個性であるほうが、ニンジンであることの意味が明らかになっていい。


とでもいうような、ある種の割り切りかたを感じた。
そして、この割り切りが、この漫画にスピード感を与えているのだし、少年マンガっぽさ、ジャンプっぽさを感じさせる一つの要因なんじゃないかなあと思った。


あと、気になるのは最近出てきたアニメのプロデューサー(なのかな?)。オーディションに来た亜豆を顔だけで合格にしたエロ爺。
あいつには期待してる。主にピロー的な意味で。正直に言うと、2009年、個人的にもっとも期待をかけているのがあの爺。

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ジョジョのなかで最強なのはカーズ!異論は認める

私はジョジョの奇妙な冒険のなかでいちばん強いのはカーズだと思っている。


OK。
君が何を言いたいのかはわかってる。
「んなわけねーだろ、このバカ!」
そう言いたいんだろ。


たしかに、実際に戦えば、3部のディオのほうが強いだろう。二人とも、漫画のキャラだっていうのに「実際に戦えば」ってのは変な話だけど、実際に戦えば、たぶんそうなるはずだ。


だけど、「カーズがいちばん強そう」と思ってるのは自分だけじゃないんじゃないか、って勝手に私は思っている。
てなわけで、今回はなぜ「カーズがいちばん強そう」なのか、っていう話。


ドラゴンボール型とジョジョ型

これは、ちょっと前に読んでおもしろかった記事。

ジョジョやある時期からのハンターハンターの様な「能力バトル漫画」では、インフレ展開が基本的に起こりにくい。多分理由は幾つかある。

・能力バトル漫画の面白さの肝は、「能力の特殊性」「特殊な能力がどう活躍するか」にある。
・よって、作者は「能力の特殊性」を描写しなくてはいけない。つまり、特殊な能力と、その能力が活躍する為の舞台を考えなくてはいけない。
・必然的に、「パワーの数値的な強弱」だけで勝負を成立させることが出来ない。「何故その能力が勝ったか」の理由づけを考えなくてはいけない。

能力系の漫画がインフレしにくい理由。 - 不倒城

さすがだなあ、この人は、とやたら感心した。こんなことは考えたこともなかったので。


この記事はドラゴンボールはなぜインフレするのかという記事(ドラゴンボール的「転回」とウルトラマンの関係。)を受けて書かれているんだけど、バトル漫画をドラゴンボール型とジョジョ型みたいに分けてみると、おもしろいんじゃないかと思った。
一回、分類してみると、いろんなことが説明しやすくなるような気がする。


たぶん、不倒城さんのおっしゃってることとは、ズレてしまうのでもうしわけないんだけど、乱暴にそして単純に定義してみるとこんな感じ。


ドラゴンボール型
キャラの強さが同一線上で表現される。インフレが起こりやすい。


ジョジョ型
それぞれに特殊能力を持っていて、単純に強弱を表現していない。頭脳戦になりやすい。インフレが起こりにくい。


ドラゴンボールで印象的なのがスカウターっていう道具で、要するにアレは、強さというものが、同一線上で比較可能だという発想に基づいてる。そういえば、キン肉マンでも強さを数値化して示していたっけ。


一方、ジョジョでも強さが数値化されて示されてるところがあるんだけど、ドラゴンボールみたいに単純なものじゃない。
たとえば、第5部の主人公、ジョルノ・ジョバァーナのスタンド能力はこんなふうに示されている。

ゴールド・エクスペリエンス(黄金体験)
【破壊力 - C / スピード - A / 射程距離 - E(2m) / 持続力 - D / 精密動作性 - C / 成長性 - A】



ジョジョでは強さというのは、複合的で、そしてあいまいな概念だ。


ちょっと話はズレるけど、UFC、また後継のプライドといった、何でもありの総合格闘技というものはもともと「最強の格闘技は何か?」「最強の格闘家は誰か?」といった問題意識から発生していた。
まあ、UFCはグレイシー柔術の宣伝の場として始まったのは確かなんだけど、それが支持されたのは「最強が何であるのか知りたい」という強い動機が格闘技ファンの側にあったからだ。
しかし、歴史を積み重ねるにつれ、あきらかになったのは「最強なんてものはどこにも存在しない」という逆説的な真実だった。
強さというものは、あくまで、物事の一面を切り取ったものでしかない。ある条件下では強いものがある条件下では弱くなる。
たぶん、これはほとんどの格闘技ファンの共通認識だと思う。


だから、強さというものが同一線上で表現されることには、個人的には多少の違和感があったりもするんだけど、これは漫画という表現物での話なので別にかまわない。事実、ドラゴンボールもキン肉マンもおもしろいわけだし。


ドラゴンボールでの強さのインフレということを考えると、重要なのが「修行」という要素なんじゃないかと思う。
頭脳戦を描かない以上、強敵に勝利する、つまりは強敵よりも強くなっていることを読者に納得させるためには、修行という、主人公側の努力と時間的経緯を描くしかない。
ドラゴンボールのなかで、いったい何回修行シーンが出てきたっけ?何回かはわからないけど、とにかくいっぱい出てきた。


このドラゴンボール型ジョジョ型というのは、あくまで抽象化したものだ。つまり、細かな部分は無視してるってこと。


だから、もちろん、ドラゴンボールにもジョジョ型の要素はあるだろうし、また、ジョジョにもドラゴンボール型の要素はあるだろう。
というか、ジョジョの奇妙な冒険の1部と2部は、これをジョジョ型と呼んでいいのだろうか?ジョジョがジョジョ型じゃない、ってのも変な話だけど、2部までに関しては、かなり、ドラゴンボール型の要素が強いように感じられる。


ジョジョの奇妙な冒険 (6) (ジャンプ・コミックス)
ジョジョの奇妙な冒険 (6) (ジャンプ・コミックス)


1部、2部でもたしかに頭脳戦で勝利をつかむ、という形が多いし、その点はたしかにジョジョ型だ。


だけど、味方側のキャラにはそんなに特殊能力がつけられてはいない。シャボン玉で戦うシーザーなんかもいるけど、シャボン玉とかそれ以前に、みんな「波紋」という共通した能力を使ってる。
つまり、味方側のキャラに関していえば、強さが同一線上で表現されているといっていい。
一方、敵側と味方側では能力の断絶があるわけで、どっちが強いかというのはなかなか言いにくいんだけど、とりあえず敵側キャラの間では強弱というものは同一線上で示されている。
そして、3部以降では見られなくなった「修行」が1部、2部ともに行われている点も注目に値する。ジョナサンもジョセフも修行をすることで成長している。つまり、努力と時間経過を強さの根拠としている。


ジョジョがジョジョ型になったのは、3部からなんじゃないかと思う。スタンドという発明がジョジョの奇妙な冒険という漫画をジョジョ型にしたのだ。


2部までがジョジョ型じゃないんじゃないかとする根拠は他にもある。
強さがハイパーインフレを起こしている点だ。


まず、1部のラスボスは吸血鬼のディオ。→2部の冒頭で吸血鬼はサンタナの食料に過ぎないことが明らかにされる。→そのサンタナはカーズ、エシディシ、ワムウの足元にもおよばない。→赤石によって、カーズは究極生命体と化す。もはや、波紋も通じない。


こんなふうに強さがすさまじいまでのインフレを起こしていて、これは3部以降ではあまり見られない現象だ。もちろん、ラスボスがいちばん強いのはどれでも同じだけど、さすがに、ここまでじゃない。


こうしてみると、なぜ、自分がなぜカーズをいちばん強そうに思っていたのかは明白だ。
2部までのインフレバトルの頂点に立っているのがカーズだからだ。
他のラスボスは他者との比較対照によって強いのではなく、あくまで自分の特殊能力によって強いので、カーズほど最強なわけではない。
まあ、実際戦ったら、負けちゃうんだろうけどさ、カーズ。


だけど、ジョジョって2部までで、ドラゴンボール型のインフレバトルをやりつくしちゃってるんだなあと思った。「波紋と吸血鬼」という図式では、もうアレ以上の強さというものは絶対に描けないだろうし。


[追記]

ドラゴンボールのキャラが強くなりすぎてしまう理由
すっかり忘れてたけど、そういえば、昔ドラゴンボールのインフレについて書いてた。

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シルエットだけでマンガキャラを当ててみるクイズ

以前、銀魂のなかで「マンガのキャラはシルエットを見ただけで、それが誰だかわかるようじゃないといけない」というセリフがあった。
たとえば、ワンピのルフィやドラゴンボールの孫悟空なんかは、シルエットを見ただけでキャラの判別ができる。それぐらいわかりやすくキャラデザインしないとダメだと。


感心した。
なるほど。マンガ業界ではそういう経験知があるのかと。さすがに餅は餅屋だ。
この「シルエットでキャラがわかるようじゃないとダメ」という話は銀魂のなかで、何回か出てる。おそらく、空知は編集者に実際にこういうことを言われたことがあるんだろう。


それじゃこの話を試してみようと私は思った。はたしてマンガのキャラのシルエットだけでどれだけキャラの判別が出来るものなのか?
ということで、シルエットクイズを作ってみた。


こういうのは難しくしようと思えば、どこまでも難しくできるものだ。だけど、あまりに難易度が高すぎてもつまらないので、思いっきり簡単にしてみた。
ほとんどが誰でも知っている人気マンガだし、しかも表紙からとってる。まあ、これはアマゾンの画像リンクを使えるので、画像の調達が楽だから、っていう理由もあるけど。
ただ、作ってる途中で飽きてきちゃったんで(何時間もシルエットばかりつくり続けてたら、そりゃ飽きる)、マンガ以外のジャンルのものもいくつか混ぜてみた。注意。


画像処理が下手なので、シルエットがギザギザになってたりもするんですけど、暇な人はどれだけわかるものなのか、試してみてください。







[マンガキャラシルエットクイズ]




問1

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問2

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問3


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問4

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問5

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問6

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問7
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問8
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問9
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問10
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↓ 答え

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スクールランブル:烏丸の記憶が失われることの意味

この記事はもともと2ヶ月くらい前に思いついてたんだけども、ぼーっとして書くのを忘れてたら、いつのまにかスクラン終わってた・・・・。
さらにぼーっとしてたら、スクラン終わってから、相当の日にちがたってた・・・・・。


てなわけで、早めに書いておかないと、そもそも、何を書くつもりだったのかすら忘れてしまいそうなので、今のうちに書いておきます。



[烏丸の病気]

この漫画の最後のほうで、烏丸がなにやらワケのわからん病気になってしまう。なんでも、記憶を失くしていく病気らしい。たぶん、アルツハイマーかなんかなんだろうけど、よくはわからない。


記憶と感情を失っていく烏丸を天満が看病して、この二人はめでたく(と言えるのかはわからないけど)結ばれる。こういう流れで、スクールランブルは「一応」、終わる。


この烏丸の病気はとってつけたような感もあるし、ハッピーエンドを含んだバッドエンドとしての描き方としてはどうなんだろうと疑問に思わないでもない。つまり、上手い終わらせ方ではないのかもしれない。だけど、この終わらせ方が自分にはなかなか興味深かった。
どこをどう興味深く感じたのかということを説明するために、ちょっとこの漫画の人間関係を軽く振り返ってみたい。



[この漫画の基本になる三角関係]

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まず、初期の段階で物語を支配しているのが、この三角関係。


播磨→天満→烏丸
この流れで恋愛感情が流れていて、この二つはともに片思いになってる。
初期の段階では、この三角関係が主流なわけだけど、播磨も天満も、ともに自分の思い込みで暴走して自滅するパターンが多い。
ちなみに、スクランを初めて読んだときに驚いたのは、ラブコメなはずなのに、恋愛対象との会話がほとんどないことだった。播磨も天満も、ほとんど自分の主観(思い込み)のなかで暴走していて、その恋愛対象との会話(播磨だったら天満、天満だったら烏丸)がほとんど描かれてない。
もし、恋愛関係における感情のすれ違いを描くのがラブコメだとしたら、初期段階のスクランは明らかにラブコメじゃなかった。むしろ、ギャグ漫画とでも呼んだほうがいいのかもしれない。



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物語が進むにつれて、烏丸ー天満ー播磨の三角関係は物語の遠景に追いやられ、代わりにこの三角関係が表に出てくる。


播磨は一途に天満のほうを見ているが、その播磨に沢近と八雲が想いを寄せている。
ここらへんになってくると、恋愛対象とのすれ違い、またそれによる嫉妬などが描かれるようになり、普通のラブコメっぽい展開が多くなってくる。だいたい、17巻あたりなんて、典型的にそうかもしれない。


ただ、この三角関係を成立させているのは、播磨があいも変わらず、天満を想い続けているというところ。もし、播磨が天満を諦めて、沢近なり八雲なりに想いを寄せてしまえば、この三角関係は崩れてしまうわけだから。
ということで、結局、遠景に退いてはしまったけれど、最初の三角関係が強固に成立しているからこそ、この二番目の三角関係もまた成り立っているということが言える。


それでは、その最初の三角関係はどのような方法で均衡を保っているのか?



[スクラン的三角関係の均衡理論]

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まず一つ目の方法。烏丸を空虚にしてしまう。


この烏丸というのは、読者からすると本当に理解できないキャラであって、ほとんど人間味を感じさせることがない。何を考えているのか、そもそも意思の疎通が可能なのかすらあいまいだ。
そのうえ、播磨のパンチを華麗にかわしてみせるわ、実は売れっ子漫画家だわで、超人的である。人間というよりも宇宙人に近い。(そういえば、実は烏丸は宇宙人だったという夢オチがあったっけ)
感情というものを持っているのかどうかすらあいまいな空虚な存在だ。


そして、烏丸という存在が空虚だから、天満の想いは常にかなえられることがない。叶えられたとしても、あくまで部分的な願望が充足されるにすぎない。
こうして、天満の想いは宙に浮いてしまう。



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二番目。異常に忘れっぽい播磨。


天満が実は烏丸のことを好きなのだと播磨が気づくのは、2巻の段階である。
ものすごく早い段階で、そのことに気づいているわけだ。


それなのに、播磨はそのことを忘れてしまったかのように、何度も「天満が実は自分のことを好きなんじゃないか」と勘違いする。
播磨がバカだから勘違いしている、という設定になっているのだとは思うが、バカにも程ってものがある。播磨の振る舞いは、「天満が烏丸を好きだ」という事実を忘れているようにしか見えない。


そして、播磨は繰り返し「忘れること」によって、天満を想い続けるのだし、このことによって、一番目と二番目の三角関係は維持されている。



[すべてが反転されて終わりを迎える]


こうしてみると、烏丸が記憶を失っていく病気になったことには二つの意味がある。この二つは、今までこの物語の人間関係を維持してきたものをちょうど反転させた格好になっている。


まず、烏丸が病気になったことだけど、これは、今まで超人的で人間味を感じさせなかった烏丸というキャラが、われわれと同じ生身の肉体を持った普通の人間であることを示している。
烏丸という空虚な存在に実体を与えることで、天満の想いも届くようになった。


そして、次に烏丸が記憶を失って天満と結ばれること。
これは播磨が何度も忘れてしまうことによって、恋愛関係を宙に浮かせていたことをちょうど反転させている。
播磨とは逆に、烏丸は記憶を失うことによって、天満との未然関係に決着をつけた。


こんなふうに考えると、この終わらせかたはなかなか面白いし、また洒落てるなあと思ったので書いてみた。



School Rumble Vol.21 (21) (少年マガジンコミックス)

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