今回はアニメのおっぱい演出について考えてみたい。
まず取り上げてみるのは、三期も決まったらしく大変めでたいので「みなみけ」の6話。
[男目線のおっぱい描写]春香(長女)に憧れている小学生男子の真(まこと)はなんとしても南家におじゃましたい。だが、同級生の千秋(三女)に嫌われているのでそれもかなわない。
そこで、夏奈(次女)に相談すると「女装すれば千秋にバレない」という、極めて浅はかなアイデアを授けられる。
ということで、女装(マコちゃん)して、南家にもぐりこんでいたところ、憧れの春香が帰ってくるというシーン。
1 春香が帰ってくる
(春香の周りはキラキラしてる)
2 女装している真を見て女の子だと認識する春香
(このカットでも春香のまわりはキラキラしてる)
3 「ここには女の子しかいない」と思った春香は着替えはじめる
(おっぱいがぽろろんってなる)
4 それを凝視する真
(小学生だからって女風呂にいれるのは安直な発想だ)
5 「お客さんの前で脱ぐな」と夏奈にたしなめられて赤面する春香
(井上麻里奈にだったら、たしなめられるのもやぶさかではない)
6 多幸感で悶絶する真
(しかし、この春香の顔ヘンだな)
このシーンでは、春香が脱いでいく過程で、真がそれを凝視してるカットがいくつかはさまれている。
つまり、
これとか
これは真の主観ショット(=視線)だ。
厳密にいえば、春香のおっぱいを映している仮想カメラ位置はちょい上からなので、真の視線と完全に一致しているわけじゃない。
しかし、それでも、ときどき真の顔のアップが挟まれることで、まるで、真が春香のおっぱいを凝視しているような効果が現れている。
そして、これが真の主観ショットであるかのように感じられるからこそ、この一連の展開はお色気シーンとしてなりたっているのだし、また面白さも生じている。
たとえば、これが夏奈や千秋の主観ショットであるとすると、ただ単に「目の前で姉が着替えをしているだけ」であるので色っぽくもなんともない。もちろん、面白くもない。
春香が脱ぎ脱ぎするこのシーンは真の主観ショットでなりたっているわけだけど、実は春香が脱ぎだす前から、これが真の主観であることが示されている。
どこか?ここだ。
この二つのカットでは春香の周りがキラキラしてる。
春香に憧れているのは真なわけで、このキラキラは真が春香に憧れていることを示す記号だ。つまり、春香が帰宅した時点ですでに真の主観ショットがはさまれているということになる。
ところで、この二番目のカットはよくよく考えると、ちょっと変じゃないだろうか?
というのも、春香の周りはキラキラしているから、ここの部分は真の主観なのだけど、その真自身がこの画面に描かれているんである。
これは真の主観なのだろうか、それとも客観なのだろうか?ここでは、主観と客観が混じりあっている。
主観ショットと客観ショットをわざと混同することで、叙述トリックを生み出しているといえば映画のシックス・センスがある。それから夏目友人張でも、よく似た手法が使われてた。
シックス・センス、夏目友人張の場合は意図的に混同しているわけだけど、このみなみけのシーンはどうも無意識的にそうなってるような気がする。もっとも、根拠があるわけじゃないけど。
おっぱいに限らず、パンツなどの性的対象をだれかの主観を通して描き出しているのは、よく見かける。
これには二つの意味が込められているみたいだ。
まず、一つには、登場人物の欲望のありかを明らかにすること。
そして、見ている側に、その欲望を伝播させること。このシーンでは真と、それを見ているわれわれは春香のおっぱいに対する欲望を共有している。
こういう主観ショットはみなみけ以外でもよく使われているけど、おっぱい、パンツが画面に氾濫してるにもかかわらず、ほとんど客観ショットで描かれているアニメも存在する。たとえば、ストライク・ウィッチーズ。
パンツ、乳揉み、ベッドでの寝姿と毎回、エロエロなのにもかかわらず、このアニメではあまり主観ショット(かそれに類似したもの)が使われていない。
第9話での芳佳とリーネの入浴シーンなんかはそれっぽいけど、基本的にパンツもおっぱいも客観ショットで描かれている。
これは登場人物がほとんど女に限られているので、女体を欲望の対象として見ていないからだ。まあ、例外もあるけど。あの人とか。
さて、おっぱいを主観ショットで描いたアニメのなかには、とても変わった使い方をしているアニメが存在するのでこれに触れておきたい。
本当は触れなくてもいいような気がするけど、あえて触れておきたい。
アイドルマスター XENOGLOSSIA(2007)。
[アイドルマスター XENOGLOSSIAのおっぱい描写]アイドルマスター XENOGLOSSIAのおっぱい描写が変わっているとは言っても、そもそも、それ以前に、このアニメ自体が相当に変なわけだ。
原作ゲームではアイドルをプロデュースする話だったはずが、いざアニメになってみたら、
「iDOL(アイドル)」と呼ばれる巨大ロボットに乗って、美少女たち(アイドルマスター)が隕石を落としたり、戦闘したりする話
になってた。
その時点で十分すぎるほど変なので、そのなかの一描写の「変」をわざわざ指摘するのも野暮なことだと思わないでもない。が、一応やってみる。
さて、これは主役の天海春香が水着のおっぱいを披露しているシーンだ。
この画面はある人物の主観ショットでなりたっているのだけど、いったい誰の主観ショットなのだろうか?
これ、ロボットの主観ショットなんである。
つまり、春香のおっぱいを見つめているのはロボットなのだ。
みなみけで春香のおっぱいを凝視していたのは真だったが、アイドルマスター XENOGLOSSIAで春香のおっぱいを凝視しているのはロボット(そういえば、二人とも同じ春香という名前だった)。
このアニメに出てくるロボットには心らしきものがあるという設定になっている。
そのこと自体は別に珍しくもないのだが、アイマスアニメのなかでは女の子たちと巨大ロボットのあいだで恋愛感情のようなものが交わされ、その出来不出来がロボットの活躍に影響してる。
いま、「恋愛感情のようなもの」と書いたが、さすがに恋愛感情そのものではないと思う。だって、相手はロボットだし。
そして、ロボットが女の子に対して「君のことが好きだよ」と意思表示をしているときに、この主観ショットがよく使われている。「見つめること」でロボットは恋愛感情を表現するのだ。
また、この「見つめること」を少しエスカレートさせた意思表示として女の子の姿を「録画する」という手段をロボットがとることもある。これもまた女の子に対する好意表現だ。
ところで、アイドルマスター XENOGLOSSIAのなかでは、基本的に男性は登場してこない。
いるにはいるのだが(爺)、たとえば、マクロスFでのアルトのように、視聴者が自分を重ね合わせることのできる男性はいない。
だが、ストライク・ウィッチーズのように男性主体がまるっきり出てこないかというと、それは違う。
われわれが女の子をいやらしい視線で見つめているのと同じく、このアニメのなかでも女の子を熱心に見つめている存在がいたじゃないか。
つまり、巨大ロボットだ。巨大ロボットこそが男性視聴者の分身なのだ。少なくとも、アニメの作りとしてはそうなっている。
そして、ロボットが女の子を「見つめること」や「録画すること」で感情表現を行うことをあわせて考えると、もっと限定された意味が浮かび上がる。
これはアイドルマスター XENOGLOSSIAにこめられた、製作者側のメタファーだ。
つまり、このアニメのなかでは、どういうわけか、
アイマスファンを巨大ロボットとして表現しているらしいのである。
これがアイマスファンの姿だ!
普通の視聴者は、「まるで自分が巨大ロボットになって女の子と恋愛ごっこしてる」かのような、今までに味わったことのない異次元体験ができ、
また、原作ファンは「意味はよくわからないけど、ものすごく遠まわしに批判されてる」ような気分が味わえるということで、このアイドルマスター XENOGLOSSIAはとても価値あるアニメだと個人的に思う。
ただし、巨大ロボットになって女の子と恋愛ごっこを楽しみたいという性癖を持った人が、製作者側が予想していたよりも少なかったために、不人気に終わってしまったのは残念なことだ。
とりあえず野心作であることだけは確かなのに。その野心がどこを目指してるのかは知らんけど。
[関連リンク]本当は面白い「アイドルマスター XENOGLOSSIA」