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庵野秀明は風呂に入らない、カート・コバーンも風呂に入らなかった・・・・

4396763530監督不行届 (Feelコミックス)
安野 モヨコ
祥伝社 2005-02-08

by G-Tools


今さらにもほどがあるんだけど、この本を読んでみた。
いやー、これ、とても面白かった。

2002年に庵野秀明と結婚した安野モヨコが夫婦の日常を描いたマンガ。
車に乗ればアニソン、特撮主題歌の入ったCDを延々かけ続ける、部屋はDVDとフィギュアで埋め尽くされてるという夫。
そのオタクっぷりに呆れつつも、次第に慣れ親しんでしまってる、というか慣れ親しまざるをえない妻ってのが妙におかしい。

抵抗してストレスをためるより、なじんだほうがラク・・・・ということに気づきました(車内で一緒にアニソン合唱しちゃったあとの安野の述懐)


このマンガのなかでは、庵野は「カントククン」というキャラとして描かれているんだけど、このカントククンのキャラがかわいい。
オタクであることに無邪気で、純真。
そこが、なんとも愛らしい。
たとえそれがキャラ化して描かれているものだとしても、まさか、庵野秀明という人物を「かわいい」などと思ってしまうことがありうるなんて思いもしなかったよ。

もちろん、夫婦なんてのは、どれだけ仲がよかったにしても、各種のいざこざがあったりするもんだし、この本のなかで描かれているのは、夫婦生活の一面を極大解釈してみせたものだくらいはわかっている。
生々しい現実をフィクションとして昇華させるために、二人がキャラとして描かれているんだろうし。
しかし、そんなところでの読みとりかたはどうでもよくて、実際、私はこの夫婦にとても好感をもっちゃった。

嫁さんは巷ではすごく気丈な女性というイメージが大きいとは思いますが、本当のウチの嫁さんは、ものすごく繊細で脆く弱い女性なんですよ。つらい過去の呪縛と常に向き合わなきゃいけないし、家族を養わなきゃいけない現実から逃げ出す事もできなかった。ゆえに「強さ」という鎧を心の表層にまとわなければならなかっただけなんです。心の中心では、孤独感や疎外感と戦いながら、毎日ギリギリのところで精神のバランスを取っていると感じます。だからこそ、自分の持てる仕事以外の時間は全て嫁さんに費やしたい。そのために結婚もしたし、全力で守りたいですね、この先もずっとです。(巻末の庵野秀明のインタビュー)

人ののろけ話はあまり聞きたくはないもんだけど、なぜか許せるのが不思議。

ところで、この本のなかに庵野秀明は風呂に入らないというエピソードが出てくる。

なにしろ自分のアパートの風呂は壊れて使えなかった、カントクくん

銭湯には週1,2回・・・・・(行けばいいほう)

洗たくなどはするわけもなく

洋服もボロくなるまでずっと着て、汚れたら捨てていた

つき合いはじめの頃、カントクくんの部屋を片づけていたら「捨てた」パンツがゴミ袋4個分あった・・・・


これを読んで、ニルヴァーナのカート・コバーンも風呂に入らなかったっていうエピソードを思い出した。
1ヶ月に1回しか風呂に入らず、毎日風呂に入る奴をバカにしてた、っていうカートのことを思い出した。
不潔な人間が清潔な人間を見下す、という心理があることを、私はカート・コバーンの件で初めて知り、驚いたもんだ。
どうもキリスト教には「体を清潔にしているのは異性を誘惑していることだ」みたいな感覚が昔あったらしく、そこから隔世遺伝みたいな形で受け継がれていったもんかもしれない。
まあ、これは単なる思いつきで、何の根拠もないんだけど。

いきなり、ニルヴァーナの話なんかしちゃうと読んでいる人は面くらうのかもしれないけど、私にとってはそれなりに合理的な筋道なのだ、これ。
自分のなかでは、ニルヴァーナとエヴァって、実はとても近しい存在で、90年代の文化というと、この二つが即座に思いうかんでくる。
私の脳内地図の上では、ナデシコやウテナやカウボーイ・ビバップよりも、ニルヴァーナのほうがずっとエヴァに近い。

この二つは、アニメと音楽という表現方法の差こそあれど、その底のところではかなりの部分で共通している。
まず、陰鬱な内面描写が多いってのがそうだけど、それだけじゃなく、その表出のさせかたがとても似通ってる。

カート自身は「強弱法」っていう呼び方をしてたけど、ニルヴァーナの音楽はゆったりとした静かなパートと絶叫を伴った大音響のパートがかなり明確にわかれてる。
内へ内へ螺旋を描いていったものが、一挙に放出されるイメージ。
エヴァも同じで、陰鬱な内面描写がえんえん繰り返された後、シンジが絶叫しながら暴力をふるう。
外部に追いつめられた内面が、ある臨界点を越えると一気に外部への暴力性として表出されるっていう表現スタイル。
そこがこの両者に共通しているところだ。

国も背景としている文化も、構成しているものだけを見れば、毛ほどもかぶってるようには思えないけど、私はこの二つの表現を似たようなもんだとずっと感じてた。

こんなわけで、この本を読んでいたら、ニルヴァーナのことを唐突に思い出してしまったので、久しぶりにカート・コバーンの伝記を読み直してみた。

4947599294病んだ魂―ニルヴァーナ・ヒストリー
マイケル アゼラッド Michael Azerrad
ロッキングオン 1994-09

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最初に大ざっぱな印象から述べると、とても痛々しかった。
もう、カート・コバーンという、このロックスターにあこがれることのできる年齢でもないし、ただ読んだ印象をそのままに受け止めてみたんだけど、それはやっぱり痛々しいとしかいうことのできないものだ。

かつては林業で栄えたものの、今は何の娯楽もない田舎町で育った人づきあいの極端に苦手な青年。
人と会話することに何の楽しみも見いだせず「それなら寝ているほうがずっといい」とすら言うカート。
そんな彼が、クリスとデイヴというバンドメンバーを得て、世界的なロックスターになっていく。
だが、それは成功というよりも、前からかかえていた混沌をさらに加速させるものでしかない。
「服用すれば胃痛が消えるから」と言い訳しながら、結婚したコートニーといっしょにヘロインにおぼれる。
カート自身は、ヘロインをやってるのは耐えがたい胃痛のせいだと語ってはいる。
なにせ他人の体のことだから何とも言えないが、とにかくヘロイン服用はカートとコートニーをこんな状態にした。

「ホテルの部屋に入ったときに、こいつらは本当にひどいことになってるとわかったよ」とデイヴは言う。
「二人はベッドの上にボロボロ状態でぶっ倒れていた。気分の悪い悲惨な光景だった。彼らに怒りは感じなかったけど、彼らがこんなことをしなくちゃいけないほど悲惨な状態にあることに怒りを感じた。自分の体が機能しなくなるまで、よだれをたらす赤ん坊のようになるまで、あんなことをする人がいるなんて痛ましいよ。『よし、ドラッグをやってメチャクチャになって醜態をさらそうぜ』って感じだろ。あそこまでやるのはバカげているし、悲惨だよ」。
「カートの部屋を訪ねたら、下着一枚のカートがドアを開けてくれた。ベッド・カヴァーからコートニーの髪の毛が少し覗いてた」とウェンディは言う。「古くなった食べ物のトレーが5つほど、ワゴンに乗ってたから、『カート、どうしてメイドさんを呼ばないの?』と尋ねると、コートニーが『ダメなの。彼の下着を盗んじゃうから』と答えたわ」。

これだけ読むと、ジミ・ヘン、ジャニス、シド・ビシャスといった、かつてのロックスターの歩んできた道をそのまま、なぞっているかのように見える。
そして、カートがありきたりなロックスターであったのも、また事実だろう。

たとえば、ヘロインをやってみたのは、イギー・ポップにあこがれていたから、という下りがこの本のなかにある。
少なくとも、あこがれのロックスターの姿を反復してしまう程度には、カートは弱かったし、また平凡な人間だった。
そういう平凡さというのが、今回、読み直してみてやたらと目に付いた。
たとえば、バンドが有名になったとたんに、カートが自分の著作権料を増やすように、他のバンドメンバーに要求するくだりがあるんだけど、これなんかもそうだ。
なんて、ありきたりな話だろう。
この伝記は、カートを神格化しようとはしていない。むしろ、その逆で彼がいかに普通の人間であるかを書こうとしている。
ただ、カートは普通の人間よりも致命的に弱かった。それが、あの悲劇的な結末の原因だろう。

ところで、今回この伝記を読み直してとても興味深く感じたのは、カートが性差別主義者、体育会系、ヘヴィメタルといった、自分たちの文化(パンク、グランジ)以外の文化集団に対して、激しく反発しているってことだ。

(嫌っていたパール・ジャムのメンバーであるジェフ・アメンがバスケット・ボールの州代表であったことに対して)
「体育会系の奴らが音楽業界にまではびこってる。最近は筋肉モリモリのマーキー・マークみたいな奴ばっかりじゃないか。ゾッとするよ。あいつらに仕返しするために、僕もバスケをやり始めるつもりだよ」

こんな感じでカートは他の集団に対する敵意をむきだしにしている。
この本のなかには、他にもこうした呪詛が満ちあふれている。

性差別主義者に対する敵意というのは理解できるけど、体育会系やヘビメタなんて、そんなに敵視するほどのものなのか、って疑問に思う。
まあ、ヘビメタとパンクは昔から仲が悪いと相場が決まってるもんではあるけど。

なぜ、カートはどうでもよいものに対し、必死に毒づくのか。
まるで、何かを否定しつづけていなければ、自分を保てないみたいに見える。

こういう露骨な敵意というのは、エヴァ当時の庵野にも見られたものだけど、庵野の場合は敵意を向けた先が「オタク」という、自分が所属してる集団であるところが決定的に異なってる。
この差が出てくる一つには日本とアメリカの違いだろう。アメリカのほうが、異なる文化間での対立が直接的だし、またときに暴力的だから。そこでは、自分を守ることで精一杯で、自己批判をしてるゆとりなんて、なかなかないんだろう。
それともう一つ、外部と対立することを前提としたロックと、外部を無視して内にこもることを前提としたオタクの違いもあるのかもしれない。

それはともかく、オタク批判、つまりは自分自身を批判し続けた庵野秀明は、それから10年後、嫁さんに自分を笑えるキャラとして描かせるようになった。
いっぽう、他者を敵視しつづけたカート・コバーンは「だんだん消えていくくらいなら、一気に燃え尽きた方がマシだ」と遺書を書き、自分の頭を銃でブチ抜いた。

たしかにエヴァ以降の庵野というのはみっともなかったのかもしれない。
迷走してた感がありありだ。

また、カートの自殺というものも、私は倫理的に非難することはできない。
この生が生きるに値するのかどうか、そんなことは知らないし、また興味もないから。

だけど、どっちの生き方が好きかと問われれば、庵野のほうかなってことくらいは言える。

エヴァ以降の10年というのは、庵野が自分のカリスマ性を失墜させていく過程だったが、それはそれでいいじゃないか。
結局、人の期待したカリスマ性なんてものに応えなきゃいけない義理なんてどこにもないのだ。

いっぽう、カートは自殺することで、ロックのカリスマになった。つーか、なってしまった。
しかし、そんなカリスマだとか何だとか、そんなものがいったいなんだっていうのだろう。
ただ、彼は普通の人間よりも、弱かっただけのことだ。肉体的にも精神的にも。
そこに同情はするし、また共感しちゃったりもする。実際、ネヴァーマインドを久しぶりに聞き返してたら、泣きそうになったし。
しかし、思いっきりドライに言ってしまえば、彼は悲しいまでに弱かった、ただそれだけのことだ。
そこに感傷の甘い粉をまぶして神棚にそなえるのも勝手だろうが、とりあえず私はそれに興味がない。

一つ勝手な夢想をすることを許してもらえるなら、もしカートが日本に生まれてオタクにでもなっていれば、もう少し楽に生きられたんじゃないか、って思いもした。

[参考記事] 安野モヨコ「監督不行届」 Trick×Trickエヴァじゃなくて"庵野"について書くよ-Trick×Trick

B0012V4WSWヱヴァンゲリヲン新劇場版:序 通常版
三石琴乃 林原めぐみ 緒方恵美
キングレコード 2008-05-21

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B000F6YP50ネヴァーマインド
ニルヴァーナ カート・コバーン
ユニバーサル インターナショナル 2006-05-17

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ヤンキーファッションは学ランでしか成立しない

先週の金曜日だったかな?
夕方のニュース見たら、その最初に、福岡の中学校が荒れてる、っていうのをやってた。
その荒れているという中学校の卒業式をテレビは取材してた。

↓ ここに出てるのと同じやつ。

「何撮ってんだ」「取材するちゃ、100万年はええぞ」とマイクを奪って歌いだす …放尿・授業妨害で逮捕者が出た田川の中学生ら

最初のニュースだから、トップニュースってことになるんだろうけど、はっきり言って、こんなのにたいしたニュースバリューがあるとも思えない。
生徒が逮捕されたらしいし、校長と教頭が心労でダウンした、とも伝えていたが、しょせんはその程度の話であって、そうたいしたことじゃない。
だから、これをトップにもってくるという、テレビ局の判断は間違っているともいえるのだけど、その映像を見ると、これをトップにしたがる気持ちというのはたしかに理解できる。

だって、このヤンキーファッションが面白くてしかたないんだから。

短ランにボンタン、しかもリーゼントっていう、もはや絶滅したと思われていたものが、いまだに存在していたことの不思議。
文化というものが、ある地域で隔絶したまま生き残ることがあるのだという事実がたまらなく面白い。
この地域ではずっとこうしたヤンキー文化が継承されていたのだろうか?
それとも、昔のヤンキー漫画とかの影響なのだろうか?

しかし、これを見て思ったんだけど、やっぱ、ヤンキー文化ってのは、学ランじゃなきゃなりたたないなと。

たとえば、今、マガジンで連載されてるこの漫画。

ヤンキー君とメガネちゃん 4 (4) (少年マガジンコミックス)
ヤンキー君とメガネちゃん 4 (4) (少年マガジンコミックス)

タイトルにヤンキーとついてるものの、これがヤンキーってのはどうもピンとこない。
それがなぜかというにこれは制服がブレザーだからだ。
だから、ヤンキー性ってのが、ネクタイを崩してるとかの瑣末なところでしか表現されてない。
髪型とかも、普通だし。

それに比べて、

[完全版エクストラ] ろくでなしBLUES 1
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俺たちの好きなBE-BOP-HIGHSCHOOL―ツッパリ青春漫画の傑作と80年代ヤンキー伝説
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カメレオン 成田心中編 (プラチナコミックス)
カメレオン 成田心中編 (プラチナコミックス)

もろヤンキーって感じがする。
これこそヤンキーっていうか、これじゃなきゃヤンキーとは呼べないというか。

ヤンキー文化ってのは、正当なもの(制服)に対するずらしであると同時に、一種の様式美だ。
いや、まあ美であるかどうかは、各人の判断におまかせするけど、やっぱ様式ってのはヤンキーにとって大事なもの。
その様式美ってのは、学ランでしか表現できないたぐいのものなんだろうなって思う。

ヤンキーが絶滅しちゃったのは、ブレザーでそうした様式美を作り出すことができなかったためではないだろうか。
ブレザーだとリーゼントもいまいち相性が悪い気もするし。

この中学校がヤンキーを撲滅したいのならば、今からブレザーにするか、それとも私服にしちゃえばいいんじゃないでしょうか?
たぶん、それだけで、相当変化があるような気はするけど。

[関連記事]
オススメのヤンキー漫画は?

しかし、ヤンキー漫画ってのも、絶滅寸前だなあ。

それと、どうでもいいことなんだけど、ヤンキーがマスクしてるのって何の意味があるんだろう?
マスクといっても、普通のマスクから、鳥のくちばしみたいなマスクまであるわけだけど、あれはどういう文化的変遷をたどってきて、そこにたどりついたもんなんだかよくわからん。




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ギャルゲーに三角関係が出てこない不思議

いくつかギャルゲーをやっていて気づいたんだけど、どうもギャルゲーには三角関係が出てこないような印象がある。

もちろん、まったく出てこないというわけじゃないんだけど、かなり少ない。
主人公の男を二人の女が奪い合うというのはわりとあるけど、男二人が女一人を奪い合うという形の三角関係があまり見当たらない気がする。

アニメ化されてるということで話に出すのがちょうどいいと思うんで、ここではクラナドを例にとってみる(原作は未プレイだけど)。

このなかで三角関係らしきものは、藤林 杏、椋の双子と岡崎のあいだでしか成立してない。
まあ、岡崎、春原、渚の関係も三角関係といえないことはないけど、渚のなかで春原は確実に恋愛対象には入ってないだろうから、これは三角関係として成り立ってない。

あらためて言うまでもなく、恋愛もののフィクションにおいて三角関係ってのはとてもポピュラーなものである。

たとえば、この漫画。


タッチ (6) (小学館文庫)


タッチのなかでは執拗に三角関係が繰り返される。


まず、最初にあるのがこの三角関係。

sankaku001.jpg


しかし、双子で幼なじみを取り合うってのは、とてもドロドロした話だと改めて思う。
このドロドロってのは、昼ドラ的なドロドロなわけだけど。
それが、ああいう軽い読後感をもたらしてるのを考えると、やっぱあだち充ってスゴい。
あえて、軽いところにとどまってみせるっていうのは、当時の時代性もあっただろうけど、この漫画家の特質でもあったんだろう。
この軽さって真似しようとしてもできるもんじゃないんで、こういうのを才能とか呼ぶんだろうなあ。

あだち充がいかに天才かという話はとりあえず置いておくとして、三角関係の話。

和也が交通事故で死んで、三角関係の一つが欠けてしまう。
すると、その欠けた一点は必ず補われなければならないとでもいうように、すぐさま新田がこの三角関係に入ってくる。

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つまり、この長い青春物語の大部分で、この三角関係は継続されてる。
そして、逆の視点から見ると、こういう三角関係もなりたっている。

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ここではタッチにおける三角関係を見てみたが、他の恋愛もののフィクションにおける三角関係には、たとえば、以下のようなものがある。


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このほかにも三角関係なんてはいて捨てるほどあげられるだろう。

一人の人間を二人で取り合うことによって、人物間で闘争が生まれ、内面で葛藤が生じる。
嫉妬やいらだちや焦りを通じて、登場人物のなかで恋愛感情が強められる。

だから、男二人で女一人を取り合うという図式の場合、その女の価値というのは三角関係の効果によって高められる。

たとえば、浅倉南というヒロインはそのままでもたしかに価値が高いだろう。
だけど、和也、新田という、男たちに求愛されることで、よりその価値を増しているといえる。
まあ、需要が高いから価格も高くなるっていうやつ。


ドラマを転がしやすく、またヒロインの価値を高められるから、三角関係が多用されるんだろうってことは、容易にわかる。

だけど、それなら、これだけメリットのある三角関係をなぜギャルゲーは描こうとしないのだろう?不思議。

だけど、これ、少し考えてみたら簡単にわかった。

ギャルゲーの構造ってのはこうなってる。

sankaku007.jpg


ヒロイン、一人一人のルートは独立していることになってるけど、主人公の男はどのヒロインに恋愛してもかまわない。
こういう複数の時系列が並列してるなかで、三角関係を描こうとすると変なことになる。
まあ、女二人が主人公一人を取り合うという形は簡単にできるけど、男二人、女一人パターンは難しい。

もしここに主人公のライバル(恋敵)の男がいたとして、これを仮に新田とでも名づけておくことにする。

そうすると、A子のルートで新田と主人公がA子を取り合うストーリーがあったとすると、この新田はB子ルートではライバル(恋敵)としては使えない。
なぜって新田はA子を好きだという設定になってるはずであるから。
「お前はA子を好きだったはずなのに、なぜB子のことも好きになってるんだ?」という、矛盾が生まれてくる。新田は無節操なやつだ、てなことになる。
まあ、無節操といえばギャルゲーのプレイヤー自身がそうなのであるけど、仮に自分が無節操であったとしても、他人の無節操はやたら目につき不快なもんだ。

だから、男二人、女一人の三角関係をギャルゲーで使うには、そのルートごとに、男の新キャラを登場させなければいけないことになって、これはまずい。
ルートごとに、新キャラが出てくるのって、明らかに変だから。

こういう構造上の理由で、ギャルゲーのなかでは三角関係(男二人、女一人)が描かれないんだろうことはわかる。
だけど、三角関係を描けないことによる弊害ってのは確実にある。
主人公のなかで恋愛感情が高まっていく過程が描きにくいってことと、ヒロインの価値を高められない、というこの二つだ。

で、これを解決する発明ってのが、「ヒロインの過去」なんじゃないかなと思うのだ。

ギャルゲーのなかでは、ヒロインが過去になんらかのトラウマを持っていて、それを解決することで、主人公との恋愛も成就、みたいなパターンがよくある。
クラナドで言えば、一ノ瀬 ことみがその典型。
それと、風子もそうかもしれない。

彼女たちは過去になんらかの葛藤を持っていて、それを主人公と一緒に解決していく。
その過程で、過去を共有するわけだし、そして、そのことによって主人公は彼女らをかけがいのない存在であると認識する。
つまり、ヒロインというものに、過去の時系列を背おわせ、それを共有することによって、二つの問題点を解決してるように見える。

実は私はこのパターンがとても苦手で、これが出るたびに「うわっ、また過去のトラウマ出てきたッ!」とウンザリしてはスキップしちゃうんだけど、個人的な好き嫌いは別として、これはとても優れた発明なんじゃないかとは思う。
私はともかく、多くのプレイヤーには、ちゃんとこの効果が機能しているのだろうしね。

ちなみに私はKeyのゲームでプレイしたことがあるのって、Airだけなんだけど、このゲームのなかでは、このパターンが大げさなまでに展開され、しかもそれが結局のところ成就できないというところがとても面白い。

観鈴という病気がちの少女とつきあっていくと、いきなり平安時代と思しき過去に飛ばされ、過去でのいきさつが語られる。
その後、現代に戻ってくると、主人公はなぜかカラスになってて、物語に参加することすらできない。
主人公、そして私たちは傍観者としてただ物語が流れていくのを見ていることしか許されないまま、ヒロインの観鈴は死んでしまう。
これはギャルゲー的なストーリー展開を踏襲したまま、ギャルゲー的な願いがかなえられないという、大いなる喪失の物語だと思った。
この感覚って、村上春樹の小説に近いような気がする。
他の二人のルートは正直、退屈だったんだけど、観鈴ルートだけは泣きまくってた。涙腺がふやけるんじゃないかってくらい。




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美少女も時に迷惑なことがある-撲殺天使ドクロちゃんがクソおもしろかった

最近、撲殺天使ドクロちゃんっていうアニメを見たんだけど、これが面白かった。というか、おもしろすぎた。
今までこのアニメを見ないでいたってのは確実に人生の何割かを損していたんだなあ。
損していることにすら気づかないまま、人生を過ごすところだった。あぶない、あぶない。


[ストーリー]
どこにでもいるごく平凡な一人の中学二年生、草壁桜の前にある日突然現れたのは、自らを天使と称するロリロリ美少女、ドクロちゃんであった。
それからというもの草壁桜の生活は一変、ドクロちゃんのせいでめちゃくちゃになってしまう。そしてついに天使の少女は桜くんが通う『聖ゲルニカ学園』にまで、ついてきてしまうコトに。(公式サイト)



こんなふうに、ある日とつぜん、美少女につきまとわれることになって、主人公(男)が迷惑がってるっていうパターンはよくある。
古くはうる星やつら、最近だとハルヒとか。
ああいうのって、主人公は「迷惑だ、迷惑だ」言って不快がってるけど、読んでるこっちとしてはそれがぜんぜん迷惑に見えない。
というか、そんなふうに美少女につきまとわれるなんてうらやましくて仕方がねーぞ、コノヤローって、いつも思う。

このアニメでも、そのパターンがくりかえされ、主人公の


dokuro011.jpg

草壁桜は




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ドクロちゃんのことをたいへん迷惑がっている。



ある日、いきなり美少女と同居という萌えアニメの文脈にのっとっているにもかかわらず、このドクロちゃんだけは、さすがに迷惑だと思った。
なぜかというと、



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偶然、着替えを見てしまったら、





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撲殺される。





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後ろにお化けがいる、と軽い気持ちで驚かせたら、



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ロープに振られ、



返ってきたところを

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撲殺される。


こんなふうに、主人公は毎回、毎回、撲殺されてるわけで、さすがにこれはまったくもってうらやましくない。
美少女につきまとわれる男に、同情を寄せることができたのは生まれて初めて。


このアニメは、こういう撲殺とかの残虐ネタ、


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エロネタ(風呂に一緒に入ったらなぜかローションをかき混ぜ始めるの図)などの下品なギャグでいっぱいなんだけど、この笑いの感覚っていかにも中学生っていう感じがする。
実際、このアニメの登場人物は中学生なんだけど、そういうことじゃなくて、笑いのセンスが中学生的ってこと。


中学のときに、同級生にどこにでもマ○コマークを書いては喜ぶヤツがいたんだけど、中学生ってそういう禁じられたものを侵犯することが楽しい年頃なんだと思う。
今まで、自分たちの目の前から隠されていたものをむりやり暴いてみせること。
その侵犯行為じたいを面白がってしまうっていう。
もっとも、ウチの中学(公立)は普通に学級崩壊とかしてたようなところなんで、そういう中学生像はあまり一般的ではなかったりするのかもしれないけど。
音楽室なんかは、ほぼすべての机にマ○コマークが書き込まれてたから。
そういう(自分にとっての)中学生的なハチャメチャさがこのアニメにはあって、そこが大好き。


それと、全体的にとてもよく動いてる。


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ギャグアニメ的にデフォルメされていたりはするんだけど、視覚的に引っかかりを感じさせる映像になってて、退屈しない。


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また撲殺シーンを静止させてみると、こんなふうに飛び散る内臓、眼球まで書き込まれてたりもするし(普通に見てたら、こんなに書き込まれてることにはまず気づかない)。
それに、2(セカンド)のほうだとヤマカン演出の回もあったりする。
下品なギャグをこんなに豪華に?っていう、資源の無駄遣いというか、労力の無駄遣いも愛さずにはいられないポイント。



また、エロギャグが多いこともあって、声優がエロセリフ言わされてるのも、そのスジの人にはたまらんところかも。
能登麻美子が「(恥じらいながら)前立腺」って言わされてたり、


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釘宮理恵のセリフに「このままじゃ今夜は熱くて、火照って、切なくて、眠れないかもぉ」ってあったりとか。


ちなみに、このアニメのなかでいちばん好きなシーンは、サバト(釘宮理恵)が廊下でバケツにけつまづいてスベり、



dokuro015.jpg


「つべたいですぅ(冷たいです)」って言うところ。

ここが、ありえないくらいかわいい。
どれくらいかわいいかって言うと、ここの部分を録音して、宇宙探査船に積み込んで、まだ見ぬ宇宙人へのメッセージにしたいくらいかわいい。
宇宙人も「つべたいですぅ(冷たいです)」っていうメッセージ送られたところで、なんのこっちゃワケわからんとは思うけど、なにかしら伝わるものがあるんじゃないかと思う。


また、このアニメのOP曲は電波ソングとして有名らしいんだけど、たしかにこれは一回聞いたら耳にヘドロのように残る。
ついつい「撲殺天使ぃ、血しぶきドクドク、ドクロちゃ~ん」って口ずさんじゃってたりして、最近、周りから非常に気味悪がられてる、そんな毎日です。


B000A869SY撲殺天使ドクロちゃん 4(通常版)
千葉紗子 高木礼子 釘宮理恵
ジェネオン エンタテインメント 2005-09-22

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アニメオタクとゲームオタクの感覚の差

最近のゲームって面白いと思う?-VIPPERな俺

私はたまにしかゲームをやらない。
なんかむしょうにゲームをやりたくなるときがあって、そういうときは1ヶ月くらいゲーム三昧の日々を送るんだけど、それ以外の時期はゲーム機に触れさえしない。
ちなみに、好きなゲームをあげておくと、メタルギア・ソリッド、GTAとかの人を殺すゲーム(特にアサルトライフルなんかで遠くから人を射殺するの大好き)、パワプロ、ウイイレとかのスポーツゲーム、あとはサカつくとかのシュミレーションゲーム。RPGは苦手なので、まったくプレイしない。

そんなふうに、とびとびでしかゲームをしないもんだから、ゲーム業界の流れみたいなのはまったくわからない。
だけど、そういうゲーム事情に疎い人間から見ると、最近のゲームがつまらないなんてことはまったくないと思うんだけどなぁ。

ふだんゲームをしないから新鮮な気持ちでプレイできるという理由もあるんだろうけど、毎回とことん熱中してプレイしてる。とても面白い。
もちろん、あまり面白くないゲームもあったりはするんだけど、たいがい楽しめるし、満足できてる。

昔と今を比べると、う~ん、どうなんだろう。
子供時代にやったゲームのほうが、そりゃ面白く感じるだろうから、こういうのは同一人のなかで、比較対照ができにくいものなんだろうけど。
先入観のない子供に、昔のゲームと今のゲームを5本くらい渡してみて、どっちが面白いか聞いてみればはっきりするんだろうとは思う。
だけど、そんなこと誰もやらないだろうからな。

まあ、それはともかく、このなかでちょっと気になったところがあった。

最近のゲームって面白いと思う?
なんか映像に力入れすぎじゃね?
こんなこと言うと懐古厨扱いされると思うけど
ゲームはスーファミ時代が全盛期だったと思う


アイディアが過去の作品で出尽くしてしまったってのが一番大きいな。
昔はクリアのご褒美にムービー…って感じだったのに、
最近の作品は綺麗なムービー見るためにプレイさせられてる感が強い。

綺麗な映像も初めて見たときは「すげぇ…」って思うが二回目以降は特に感動がないしな…


こういう、「最近のゲームはグラフィックとか映像はきれいだけど、つまらない」みたいなことを言う人ってかなり多い(ような気がする)。
あまりゲームをやらない人間としては、こういう感覚はよくわからない。
だけど、この感覚ってアニメオタクには、ほとんど見られないものなんじゃないかと思った。

たとえば、上の一つをこう変えてみる。

最近のアニメって面白いと思う?
なんか作画に力入れすぎじゃね?
こんなこと言うと懐古厨扱いされると思うけど
アニメは鉄腕アトム時代が全盛期だったと思う


鉄腕アトムに関してはとりあえずおいておくことにしても、「作画なんてどうでもいい」と言ってるアニメオタクってほとんど見たことがない。
リアルでもネット上でも。

「作画よりもストーリーのほうが大事」という人はいて、もちろん、それは正論だと思う。
黒澤明が「映画でいちばん大事なのは脚本」といってるように、映画でも演劇でもアニメでも、いちばん重要なのはストーリーだろうから。

ただ、それとは別に「作画(も含めた映像表現)に力を入れること」に対しては、ほとんどすべてのアニメオタクが否定的じゃないと思う。
できることなら、すばらしい作画シーンや映像を見たい、というのは共通した感覚なんじゃないかと。

綺麗な映像も初めて見たときは「すげぇ…」って思うが二回目以降は特に感動がないしな…


自分はそんなに映像にこだわるほうじゃないとは思うけど、アニメで気に入ったシーンは何十回も繰り返して見直したりはする。
たとえば、逆襲のシャア。
あの映画の最後のほうのファンネルがびゅんびゅん飛ぶところだけを30回くらいは見てる。あそこを見てると気持ちよくてしかたがない。脳のなかで、変な液がどくどくあふれてるのを感じる。
実は、この映画じたいはまったく好きじゃなく、駄作だとすら思ってるんだけど。

ゲームオタクは「綺麗な映像」を何回も見直したりしないのだろうか?
これ、自分自身に置き換えてみれば簡単にわかる。
たとえば、メタルギア・ソリッドで、ムービーシーンを見直したりしたことって一度もない。見直そうという気にすらならない。
メタルギア・ソリッドは大好きだし、ストーリーにも感動してるってのに。
こういうゲームとアニメにおける感覚の差って、よくよく考えると不思議ではある。

ちょっと話がズレるようだけど、絶望先生の話。

4063639495さよなら絶望先生 第12集 (12) (少年マガジンコミックス)
久米田 康治
講談社 2008-02-15

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この巻で、勤労感謝の日をネタにした回がある。
ニートが千里に引きずり出され、労働者の前で無理やり感謝の弁を述べさせられる。
さんざん、千里に振り回されて、ブチ切れたニートはこんなことを叫ぶ。

我々ニートはアニメを観るのが仕事だっ!
日本のアニメの品質をチェックし改善点を
ネットに書き込むという仕事!
いわば在宅アニメ品質管理者だっ


この在宅アニメ品質管理者っていう言葉がツボにはまって、さんざ笑った。傑作。

しかし、このネタって「アニメ」じゃないと面白くないと思うのだ。
これはニートの趣味としてはアニメがお似合いだ、とかの意味じゃなくてね。

実は、この後に、他のニートたちが「おれは在宅ゲームデバッガーだ、おれは在宅政治評論家だ」って叫ぶコマがある。
このコマは在宅アニメ品質管理者のコマよりも小さい。

在宅政治評論家は置いておくことにして、「在宅ゲームデバッガー」と「在宅アニメ品質管理者」では、どっちのほうが面白いか?
これは、明らかに「在宅アニメ品質管理者」のほうだと思う。
こっちのほうが断然おもしろい。
作者本人もそう思ってるからこそ、こっちのコマのほうがでかいわけで。

「在宅ゲームデバッガー」と「在宅アニメ品質管理者」は言葉の意味あいとしてはほとんど同じだ。
要するに、どちらも自分の好きなものの品質を管理してるってことだけど、アニメオタクとゲームオタクでは品質を管理してる度合いが違うような気がする。

たとえば、ドモホルンリンクルを一滴一滴じっと見ていくような、品質管理者としてのイメージはアニメオタクのほうがふさわしい。
細かいところまで目を光らせることを矜持としているというか。
そういうイメージが「在宅アニメ品質管理者」っていう言葉の面白さなんじゃないかと思うんだけど。
ゲーマーの場合、やりこむとかはあっても、それは品質を管理してるとかじゃないわけだから。
たとえていうと、ゲーマーはドモホルンリンクルを湯船いっぱいに張って、一日中、そこにひたってるイメージ。

えっと・・・・・・、たぶん、まったくイメージが伝わってないですよね、ごめんなさい。
なにも、むりやりドモホルンリンクルでたとえる必要もなかった・・・・・・。
今回は自分の個人的なイメージを書いてみたんですけど、異論がある人もいっぱいいるでしょう。
「ゲームオタクのほうが、ドモホルンリンクルを一滴一滴大事に見てるわッ!」みたいな。
だけど、ドモホルンリンクルのお試しセットを、最初は自分の名前で応募して、次に家族の名前で応募している人を許してあげるような、そんな寛大な気持ちで、許してください。

しかし、ドモホルンリンクルを見続ける人って給料はいくらくらいなんだろう。
一見、楽に見えて実はとんでもなくしんどい仕事のような気がするんだけど。
退屈でしかたないだろう、これ。





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「エロゲ」って、なんか気持ち悪い

いきなりなんですけど「エロゲ」って気持ち悪くないですか?

これは個人的な感覚にすぎないんで、別に人に理解してもらおうとか思ってるわけじゃないんですけど、自分は背中のあたりがぞくぞくするような嫌な感覚がします。

どうも生理的に受け付けないんですよね。
「エロゲ」っていう音の響きが。

だから、このブログでは、今まで「エロゲ」と書いたことは一度もないです。
書くときはかならず「エロゲー」って伸ばして書いてます。

ただし、これは、この言葉を単体で使うときはそうしているのであって、たとえば、「エロゲライター」とか「エロゲ原作のアニメ」のように、その言葉の後に何かをつける場合は特に気にしません。
「ゲ」で終わる音の響きが嫌なのかも。

ブログとかでも「エロゲ」って書く人と「エロゲー」って書く人の両方がいるようですけど、どっちが多いんですかね。
自分の感覚では「エロゲ」7割、「エロゲー」3割くらいのような気がするんですけど。
だけど、「エロゲ」って使うほうが、なぜか知らないけど「通」っぽい。

そういえば、

エロゲに三角関係が出てこない理由ーエロゲ制作者・妹尾拓ブログ

この前、このブログにトラックバック送っていただきました。
どうも、ありがとうございます。

記事内容とまったく違う話をしちゃってもうしわけないんですけど、こちらも「エロゲ」って使っておられるみたいだし。
やっぱ「エロゲ」って使うもんなのかな、通は。

まあ「エロゲ」の音の響きが嫌、とか言っても、そんなのは個人的な感覚に過ぎないんで、人に「エロゲ使うな、エロゲー使え」とか強要できるもんでもないわけですけど。
ついでなんで書いておくとネットとかでよく見る「~じゃね?」っていう言葉遣いも苦手ですね。
これまた、一般性をもたない個人的な感覚でしかないんですけど。

「エロゲ」と「エロゲー」ってどっちの言葉のほうが使われてるのか、googleで調べてみようと思ったんですけど、よくよく考えてみれば、「エロゲー」のなかに「エロゲ」っていう言葉が含まれてるんだから、わざわざ調べるまでもなく「エロゲ」のほうが多いに決まってます。

まあ、無駄とわかってはいるんですけど、あえてgoogleに「エロゲ」「エロゲー」って打ち込んでみました。


[結果]

エロゲ の検索結果 約 5,140,000 件中 1 - 10 件目

エロゲー の検索結果 約 5,150,000 件中 1 - 10 件目



あれ?エロゲーのほうがわずかながら多い。
これはどうなってるんだろう?
しかも、ほぼ同数なわけだし。
「ウェブ全体から検索」したから、あまりにも数が多くて適当な数で区切ってるのかな、googleは、などと、よく知りもしないgoogleのアルゴリズムを勝手に解釈してたんですけど、今度はためしに「日本語のページを検索」してみました。


[結果]

エロゲ に一致する日本語のページ 約 5,420,000 件中 1 - 10 件目

エロゲー に一致する日本語のページ 約 8,370,000 件中 1 - 10 件目



今度ははっきりと「エロゲー」のほうが多いです。
なぜ?
エロゲはエロゲーに含まれてるんじゃないんですかね、これ。

上位に表示されてるページは、だいたい同じなんですけど。
2ちゃんねるのまとめサイトが多いみたい。
ただ、エロゲとエロゲーでは、微妙に順位が変わってます。

う~ん、これは仕組みがよくわからないな。
まあ、考えてみても、答えが出るわけでもないし、またgoogleのアルゴリズムを詳しく調べたいという気持ちもないので、ここは上位に表示されたものにリンクはって、お茶を泥水のように濁しておきます。

最低限やるべきエロゲーとは?ーカナ速

大スクリーンでエロゲやってみたwwwwwwー⊂⊃。Д。)⊃カジ速≡≡≡⊂つ゚Д゚)つFull Auto |



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