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たとえ、それがおっさんであっても神楽坂という名字だったら「え?ひょっとしてツンデレ?」とか思ってしまうに違いない

みなさん、ある程度の時間、この人生というやっかいなものを過ごしていると、特定の名字に対してある種の固定観念みたいなものが生まれてきませんか?

たとえば、高橋という名字に私はある特定のイメージを持っています。

簡単に言えば「高橋姓にはなぜかバカが多い」というイメージです。
それは今まで出会ってきた高橋さん達の言動が私のなかで澱のように積もり、「高橋=バカ」という固定観念を生み出してしまったわけです。
もちろん、これは一般化できるような話ではなく、あくまで私の経験からくる局地的な真理でしかありません。(いや、真理ですらないですけど)
しかし、私が高橋という名字に「バカ」というイメージを持ってしまっているのは事実。
以下、試しに私の高橋という名字を持った人たちとどういう関わりをもってこうした結論に至ったのかについて簡単に書いてみます。

あらかじめ断っておきますが、全国の高橋さん、不快な思いをさせてしまってごめんなさい。
悪気は少ししかないので許してください。


小学校5年のときにクラスメートだった、高橋太郎くん。
高橋という部分は、そのままですが、太郎というのは仮名です。
さすがにフルネーム出すわけにはいかないので。

その高橋くんは、習字の時間に「好きな言葉を書け」というお題を出されて、こう書いた。

takahashi02.jpg


好きな言葉に「努力・友情・勝利」という、某少年誌のお題目を書いているところが、高橋くんがバカであることを示している・・・・・というわけではないです。
そんなことを言ったらジャンプ読者にケンカ売ってるようなもんですし。
実を言うとこの「努力・友情・勝利」は今、自分で適当に書いたものなので高橋くんとは何の関係もありません。

全体の紙の長さを考慮しなかったばっかりに、努力・友情のところは普通のサイズで書いているのに、勝利のところで紙幅が尽きてしまって尻すぼみになってるところがバカ!・・・・・・っていうわけでもありません。
今述べたように、これは自分で書いたものですし。適当に書いたら余白がなくなっちゃっただけです。(←バカ!!!)

実は高橋くんがバカであることを示すポイントはここ。








takahashi.jpg


名前です。
高橋くん、自分の名字を間違えて、のぎへんにしてた・・・・・・・・・。そのとき、もう小5だったのに。

クラス中の爆笑をゲットした、この事件が私にはたいそう印象深く「ひょっとして高橋はみんなバカなんじゃないか」という疑念を抱かせるきっかけとなりました。

次に私が会った高橋さん。
この高橋さんは口から先に生まれたんじゃないかと思うほど、よく喋るオッサンでした。「お前と話しているとなぜか気が滅入る」と周りに評されるこの私を相手に2時間、3時間は平気で喋る。
よく喋れるな。私のような、ろくに相槌すら打たない木偶の坊相手に。

彼はどこがバカだったのでしょうかか?

この高橋さんは昭和18年生まれだったんですが、自分は「戦後生まれだ」と言っていました。


太平洋戦争の年表
1941年(昭和16年)
日本、英米蘭に宣戦布告(太平洋戦争開戦)

1942年(昭和19年)
ミッドウェー海戦
第一次ソロモン海戦
第二次ソロモン海戦

1943年(昭和18年)
山本五十六連合艦隊司令長官、ブーゲンビル島上空で戦死
イタリア、連合国に降伏。
東京で大東亜会議を開催、大東亜共同宣言を発表。
エジプト・カイロで英米中首脳会談(カイロ会談)
高橋さん、生まれる。←!!!

1944年(昭和19年)
グアム島の日本軍玉砕。
レイテ沖海戦
神風特別攻撃隊、レイテで初出撃。
米軍の新型爆撃機B-29、マリアナ諸島より東京を初空襲。

1945年(昭和20年)
クリミア半島ヤルタで英米ソ首脳会談(ヤルタ会談)。
硫黄島の戦い
東京大空襲
沖縄戦
戦艦大和沈没
ドイツ総統ヒトラー自殺。
ナチス・ドイツ滅亡。
米軍、広島に史上初の原子爆弾投下。
米軍、長崎に原爆投下。御前会議でポツダム宣言の受諾を決定。
8月15日 日本国民へ玉音放送(終戦の詔)。


年表を見ていただけると一目瞭然なんですが、高橋さん、どう見ても戦時中に生まれてます。

中学、高校生くらいが、終戦が昭和20年ということを知らないことには別に何も思いません。
昔の話だし、そう正確に覚えていなくても当然だろうとは思う。
そもそも、昭和で覚えるよりも、西暦1945年が終戦、という覚え方をしてる人のほうが多いでしょうし。
だけど、いくら終戦当時に物心がついてなかったとは言っても、戦前生まれの人間が終戦がいつかってのを知らないってのはどうも・・・・。

この高橋さんとの出会いが私のなかで「高橋=バカ」という図式を決定的なものにしました。
だから、私は高橋という名字の人と会ったりすると、それだけで「ひょっとしたら、この人ってバカなんじゃないか?」と思ってしまうクセがついちゃってます。

高橋陽一先生、ごめんなさい。
先生がサッカーのルールをガン無視した漫画描くのは、先生がバカなせいじゃないかとかひそかに疑ったりしてます。勝手な思い込みでホントにごめんなさい。

フィギュアスケートの高橋選手、ごめんなさい。
あなたがいつも、口を半開きにしてるのをテレビで見ていると私のなかで「高橋=バカ」説がより信憑性を帯びてきます。
せっかく、男前なんだから、もう少し口を閉じたほうがいいんじゃないでしょうか。老婆心ながら。


えっと、この高橋以外に印象深い名字というと「高原」ですかね。
つーか、また「高」の字がついてますが。

高橋さんと違って、私は高原さんを一人しか知らないんですが、この人があまりに強烈な人だったので、高原と聞くと、私の頭のなかにはすぐこの人のイメージがわいてきます。
この高原さんは、当時25くらいでしたかね。
見た目はちょっと怖かった。

で、この高原さん、車に乗っていて、妙齢の女性を見かけると、おもむろに窓を開け


「姉ちゃん、やらせろや!」



と大声で叫ぶという、まあ、とんでもない人でした。

そのほかにも、背中に墨が入っていたり、ムショ帰りだったり、シャブ中だった過去を持っていたりすることもあって、それ以降、私のなかで「高原は野獣」というイメージを決定づけてくれました。
サッカーの高原選手とかも、優しそうな顔してるけど、さぞかし野獣なんだろうなー。まあ、何の根拠にもなってないんですけど。

と、このように人間というものは、特定の名字に対して何らかのイメージを持ってしまっていることが、ままあるんじゃないかと思われます。
それは、同じ名字に同じタイプの知り合いが何人かいるという、経験の蓄積からくる思い込みであったり、一人の強烈な人を知っているがために、その名字に固定的なイメージがついてしまったり。

アニメ、漫画、ゲームでは、今まで聞いたことのない名字のキャラってのがよく出てきます。
日常生活では、まず出会うことのないタイプの名字。

こういう変わった名字が使われることの理由の一つには、上述した固定観念の混入をさける目的があるのではないか。
つまり、一般的でありがちな名字を使ってしまうと、そのキャラのイメージに受け取り側の固定観念(高橋=バカみたいな)が付与されてしまう恐れがあるために、普通、出会うことのなさそうな名字を付けているんではないか、みたいなことをずいぶん前に書いた覚えがあります。
我ながら下らない考察だったんですけど、下らないことを書いてるのはいつものことなので、まあ、いいか。

ここでは、現実→フィクションという矢印を避けるために、こうした珍しい名字が使われているわけですが、これを裏返してみるとどうでしょうか。
つまり、フィクション→現実という事態が発生したとき、我々はいかなる精神作用を及ぼされてしまうのか、という問題です。
具体的に言うと、既に特定のキャライメージがついている名字の人と現実で出会ったとき、我々は必ずその人を歪んだ視線で見てしまうに相違ない。

神楽坂 椰子 沢近 遠坂 厳島 涼宮 花鳥

これらの普段の生活では滅多に出会うことのない名字の数々。
しかし、もし万が一、これらの名字の人と現実で出会ってしまったとき、たとえ、それが顔のホクロから毛がにょろんと出ているような、むさくるしいオッサンであったとしても、

「え?ツンデレ?」

とか思ってしまい、ひょっとしたら自分にしか見せないか弱い部分があるんじゃないか、などとありえない妄想にふけり、その毛がにょろんのオッサンについときめいてしまう。
そんな事態が考えられます。

また、

高屋敷 鳴沢 涼宮 北条 遠野 朝霧

これらの名字の人がたとえ、細木数子みたいな美少年以外のすべてに敵意をむき出しにするようなオバサンであったとしても、

「え?ひょっとして妹タイプ?」

とか思ってしまい、まるで小動物を見るような愛おしい感情が沸き起こり、細木数子とありえない過ちを犯してしまう。そんな事態が考えられないこともない。

これはその名字が珍しいものであればあるほど、こうした精神作用は強くなると考えられます。
たとえば、神楽坂、椰子、沢近、厳島、花鳥、高屋敷、鳴沢あたりは相当に珍しい。
なので、こうした名字の人と出会った時の精神作用、言い換えれば感激は相当に強くなってしまう可能性があります。
なので、特に注意が必要かと。

[参考記事]
属性別選手権 ツンデレ級王者決定戦
第2回 属性別選手権 いもうと級

ところで、この両方に出てくる涼宮という名字なんですけど、妹のほうの涼宮茜(君が望む永遠)のほかにも涼宮遥なんてのもいますね。つーか、それ茜の姉ちゃんなわけですけど。
ハルヒを想起すればツンデレ、茜を想起すれば妹、遥を想起すればなぜか涙がとめどなく溢れてくるという、この厄介な涼宮という名字。
しかし、この名字ってそもそも実在してるんですかね。
どうも、作り物臭いんですけど。
涼宮のほかにも、椰子とかもありえなさそうな名字に感じます。
しかし、椰子はかわいかったなー。もっとも、鉄(くろがね)のほうが好みではありましたけど。
あ、鉄(くろがね)もありえなさそうな名字だな、しかし。


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人間、この壊れやすいもの ガンダム00第18話感想

ガンダム00第18話。


これ、めっちゃ良かったんですけど!!!


実は、釘宮参戦前の10話くらいはいまだに録画したまま見てないです。
だから、キャラ名も主人公とスメラギさんくらいしかわからない。
しかし、なんで釘宮理恵が出てきたとたんに見始めたんだろ、私。
そんなに好きなんだろうか、釘宮のことが。
しかし、10話くらいスキップしてるにもかかわらず、ストーリーがわかりづらいと全く感じないのが不思議です。
なんか、だいたいのこれまでのストーリーが想像ついちゃうってのはなんなんでしょうか。
他のブログの感想とかもぜんぜん見てないのに。

そんなことはとにかく、今回、すごく良かったのが、ルイス(←名前を今、調べた)のエピソード。

gundam00003.jpg


話の中盤で、スペインでの結婚式に出席していたルイス。
そこを偶然通りかかったトリニティ三兄弟のガンダム。

ニーナ(←釘宮、今、調べた)は気まぐれでその結婚式を砲撃。
ルイスも巻き込まれ、怪我をする。
日本でそのことを知った恋人の沙慈(←今、調べた)はスペインの病院へ駆けつける。



ルイスの無事を確認してほっとした沙慈は、ルイスに指輪をプレゼントする。



gundam00001.jpg

ルイス「きれい・・・・・・」




しかし、指輪をはめるべきだったルイスの左手はもう失われていた・・・・・。

gundamu00994.jpg


このシーン、チラっとだけ、失われた左手が示されて、その後、ルイスはすぐに左手を隠してしまうんですけど、その描写がこれが決定的でもう取り戻せない喪失であることを印象づけてます。

どうも、このシーンが良すぎて、正直、心が震えた。
鳥肌が立った!(c.高田延彦)
その後、トリニティ兄弟に立ち向かっていく刹那がめちゃカッコよく見えたもの。

どうも、自分でもこのシーンに過剰反応してる気がしないでもないです。
いままでガンダム00を見てなかったくせに、なにやら熱狂しちゃってるし。
その理由が何かっていうと、もともとアニメ(とかマンガ)のなかで描写される暴力ってのに尽きせぬ興味があるんですね、自分は。
それを拙いながらもちょっと説明してみます。

大塚英志が「マンガやアニメのキャラクターというのは不死身として描かれやすい」みたいなことをよく書いてるんですけど、たしかにそういう部分ってのはあります。
たとえば、ジャンプのバトル漫画なんかは典型的なんですが、あれはキャラの不死身な身体性によりかかってストーリーを展開させてることが多い。
そういう不死身な身体性というものがもたらすカタルシスもあるわけで、それはそれでいいわけです。
見てるほうも、これはリアルな暴力とは違うと思って見てるわけだから。

バトル漫画をリアルだと感じる人はあまりいないでしょうから、まあ、これは置いておくことにして、もっとリアルだと感じられるようなものはどうか?
たとえば、これとか。

4063725537バガボンド―原作吉川英治「宮本武蔵」より (24)
井上 雄彦 吉川 英治
講談社 2006-10-23

by G-Tools


バガボンドだったら、普通のバトル漫画とは違い、描写も写実的でリアルに感じられます。
ですが、本当にバガボンドはリアルなんでしょうか。

私は前に日本刀で斬られたことのあるオッサンから話を聞いたことがあります。
なんでも、若い頃に、酒に酔っ払って、見かけたヤクザをからかって遊んでたら、そのヤクザがどこかに走っていった。
逃げたんだと思って酒を飲みなおしていたら、そのヤクザが日本刀片手に戻ってきて、斬りかかってきた。
側にあるイスなんかを投げて、防戦してたら、そのうち警察が駆けつけてきて、ヤクザをしょっぴいていったらしいです。
で、ほっとしたら、上腕を斬られていたことに気づいたと。
ざっくり斬られて血はとめどなく溢れてたんだけど、不思議とまったく痛くはなかったって言ってました。

別に腕を切り落とされたわけじゃなく、骨が見える程度まで斬られただけ(斬られただけってのもどうかと思うけど)らしいんですが、そのオッサンはその後、拳を握ることが出来なくなってしまった。
腕の神経が切断されて、つながらなかったらしいです。
だから「ジャンケンでグー出せねぇんだよ」って笑ってました。

そういうことを考えると、一見リアルに見えるバガボンドですが、実はこの漫画も同じく身体の不死身性によって成り立っていることがわかります(注1)。
武蔵も小次郎も、数限りない傷を負いながら、その戦いが終わればピンピンした姿で再登場する。
あれだけの傷を負ってどこにも障害がでない、彼らはとても漫画的なキャラクターです。

私が思うに、「暴力によって失われたものは二度と戻らない」という、喪失の感覚を持たないものは真に暴力を描いているとは言えないのではないか、と。
そして、暴力というものが我々の身体を毀損せしめる決定的なものだからこそ、私は暴力に惹かれているのです。
そこにあるのは、暗くて根源的な畏れのような感情で、ある意味では宗教的なものかもしれません。
身体が危機にされされるからこそ、身体の儚さ、脆さ、そしてかけがえのなさが明らかになるとでもいうような逆説性。
とは言っても、暴力的な映画とか格闘技とか見てるだけなんですけどね。
たけしの初期の映画なんかも、暴力っていう視点から見るとめっちゃイイです。
そういえば、たけしは「おれの作る映画はハリウッド映画とは違って、ちゃんと痛みが伝わるようにしてる」みたいなことを言ってました。

で、アニメの話。

アニメ、漫画では具体的な身体性を描くのはそもそも難しい。
これは、バトル漫画的な非現実を描くか、それともリアルを描こうとするか、という態度とは別の次元の話です。
ぶっちゃけて言えば、「所詮は絵」なわけで、どれだけ残虐なものを描こうとしても、実写には負けてしまいます(注2)。
しかし、あえてそこで暴力を描こうとする逆説的な態度ってのに、どうも自分はめっぽう弱いらしい。
暴力を描きにくいものをどうやって暴力として描くか。
そういう試みに何の意味があるのかは、自分でもよくわからないんですけど、とにかく興奮します。
今回のガンダム00に熱狂しちゃってるのがいい例なんですけど。

そういえば、ガンダム00と同じく水島監督の作品である鋼の錬金術師。

B000E5KTSE鋼の錬金術師 PREMIUM COLLECTION
朴路美 釘宮理恵 豊口めぐみ
アニプレックス 2006-03-29

by G-Tools


考えてみれば、これは、最初から主人公の兄弟二人の身体が欠損していました。
兄は右手と左足、弟は全身を。
その失った身体をもう一度取り戻すために、この二人は幾多の困難を乗り越えていくわけですが、その困難な道のりというのが、すなわち失ったものの大きさを示している。
そういう、通常の漫画・アニメ的な身体性っていうものに対する逆方向からの視点がこの作品にはある。
手塚治虫のどろろにも、こうした失われた身体の回復というモチーフが出てきますが、ハガレンのほうが、もっと徹底してます。
なにしろ、やっと目的を達成したと思ったら、そこにも新たな喪失が待っているわけだから。
そこらへんが、このアニメを非凡なものにしてる理由の一つなのかもしれません。

何か話があっちゃこっちゃ行っちゃったんですけど、これからガンダム00を応援してみようかなって気になりました。
おっと、その前に、見てない10話分くらい見とかなきゃ。


注1:そういう漫画的な欺瞞ってのに、自覚的なのがこの漫画かもしれません。

4088773527リアル 7 (7) (ヤングジャンプコミックス)
井上 雄彦
集英社 2007-11-29

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注2:暴力を描いたアニメと言えば、エルフェンリートなんかはかなりよかったです。あの予期せぬ暴力の感覚ってのは独特。



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墓場鬼太郎はサブカルアニメ ノイタミナの反オタク性

ノイタミナ枠で墓場鬼太郎をやるって聞いたときは、最初、何を意図してるんだか、わけがわからなかった。
ノイタミナって連ドラのようなアニメがコンセプトなんじゃなかったっけ、って思って。

ハチクロ、のだめカンタービレ、働きマン。
ノイタミナと聞いて連想されるのはこれらのアニメなんだろうけど、この3つはアニメ化と前後する形で、実際にドラマ化されてるし。
こういうのだったら、確かに連ドラのようなアニメってのもうなずける。
もやしもんはちょいと微妙ではあるけど、まあ、連ドラになってもおかしくはない・・・かも。

たしかに、ノイタミナ枠では、ハチクロなどのほかにも、怪 ~ayakashi~やモノノ怪といったオリエンタリズムなアニメもやってるわけで、墓場鬼太郎もそれの一種と考えれば、それほど不自然ではない。
だけど、そもそもモノノ怪とかってノイタミナのイメージからは外れてるような気がするんだけど。
いや、ちゃんと見たことないんで、あまり偉そうなことは言えないが。

墓場鬼太郎とノイタミナでやるという意図がまったくつかめないまま、アニメ墓場鬼太郎を見てみたわけだけど、このOPを見た瞬間に「ああ、そういうことか」って合点がいった。

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hakaba003.jpg



主題歌は電気グルーブ。

電気グルーブのテクノに、この映像のずらし加減。
ああ、そっか。
これって、要するにサブカルなわけでしょ。

このアニメをいったん、サブカルだとみなしさえすれば、いろんな部分で腑に落ちるような気がする。
墓場鬼太郎だけじゃなくて、ノイタミナ全体のことが。

オタク界隈で「サブカル」っていう言葉が、どういうイメージの範囲で使われてるんだかよくわからない。なんとなくのイメージはわかるんだけど。

自分でもなんとなくのイメージのまま言葉を使うんで、まとまりを欠いた文章になっちゃうような気がするんだけど、まあ、とりあえず感じたことをそのまま書いてみようと思う。

枠名称である「ノイタミナ」とはアニメーション(Animation)を逆読みしたもので、「アニメの常識を覆したい」という制作スタッフの想いに由来する。
(中略)
主に少女漫画を原作とした作品を放送する[2]事で、従来アニメを見ないと思われていたF1層を意識した展開を図っている[3]。
ーノイタミナ Wikipedia


ノイタミナの「アニメの常識を覆したい」ってのは、このF1層を取り込もうとする姿勢にあるんだと、今まで思い込んでた。
ターゲットとしているF1層、つまりオタクからスィーツ(笑)って呼ばれる層ってのが、従来のアニメを見る層とは異なってるっていう意味合いなんだろうと。
そりゃ、オタクとF1層では明らかに異なる人種なわけで、「アニメの常識」に反するのは当たり前だ。

ところで、ここで書かれてるアニメの常識ってのは、もっと具体的、個別的に言えば深夜アニメ的な価値観のことだと、これまた勝手に私は思い込んでた。
深夜アニメ的な価値観ってのを、今、放映されてるもので具体化してみると、clannad、みなみけ、ロザリオとバンパイア、true tears、ここらへん。
この4つって、それぞれに全く異なる作風ではあるけれど、どれもが、とても深夜アニメ的だ。
まあ、思いっきり簡単に言えば、オタク向けの商売してるってことだけど。

これらのオタク向けの商売じゃなくて、F1層(スィーツ)向けの商売してるのが、ノイタミナなんだと私は思っていて、そこらへんの商売の流儀の違いが「アニメの常識を覆したい」の部分なんだと感じていた。

もちろん、これはこれでそれなりに正しいんだろうけど、墓場鬼太郎OPに妙なサブカル臭を嗅ぎ出した後で、ちょっと見方が変わった。

要するにノイタミナの「アニメの常識を覆したい」の部分って、この枠のサブカルっぽさを意味してもいるのかもしれないな、と。

ハチクロが芸大を、のだめカンタービレが音大を舞台にしてるのが急に象徴的に思えてきたんだけど、思い返してみれば、ノイタミナのアニメって妙にサブカルっぽい。
たとえば、ハチクロ。
実写OPとか、あと音楽の使いかたなんかが、ものすごくサブカルな感じがする。
怪やモノノ怪ってのも、オリエンタリズムと解釈するより、芸大的なサブカル志向とでも解釈したほうがひょっとしたらいいのかもしれない。

オタクとF1層はたしかに対立概念だ。あきらかに。
だけど、オタクとサブカルってのも実は対立概念なんじゃないかって気がする。

これは最近思ってることなんだけど、サブカルとオタク文化って近いように見えて、実は正反対の存在なんじゃないかっていう。
たとえば、昔、岡田斗司夫が著書のなかで「おたく文化はサブカルチャーじゃない」と力説してた。
岡田が言ってるサブカルチャーとここで使ってるサブカルとはかなり意味合いが違ってはいるので、適切な引用ではないだろうけど、そういうサブカルチャーとのあいだに一線を画したいとでもいうような気分が岡田のなかにあるのかもしれない。
ものすごく強引な論理展開だったしなあ、この「おたくはサブカルチャーじゃない」論って。

実は、私は岡田斗司夫のようなオタク第一世代じゃなくて、オタク第三世代のほうが、サブカルと相性が悪いような気がしてる。
むしろ、岡田斗司夫ってとてもサブカル的な人に見える。
まあ、これは後で気が向いたときにでも書いてみることにしようかと思ってるけど。

話を墓場鬼太郎に戻すと、このアニメがF1層をターゲットにしてるようにはさすがに思えない。
宣伝とかでは「女性向き」ということになってるけど、どこが女性向きなんだかさっぱりだ。
だから、実際に見るまではノイタミナ的じゃないように感じていたんだけど、上で書いたような経緯を辿って、これは意外とノイタミナ的なアニメなんじゃないかと考えるようになった。

要するに深夜アニメ的なものに対するアンチっていう一点においては、ハチクロも墓場鬼太郎も同じじゃないかと。
まあ、そんなことを感じた。

*そういえば、墓場鬼太郎って子供のころに原作を読んだことがあるんだけど「アニメの鬼太郎とぜんぜん違う!」ってガッカリした記憶があるなー。
ものすごく嫌な読後感が残ったように覚えてる。
このアニメを見てみても、実際、鬼太郎が気色悪い。
しかし、さすがにもう子供じゃないんで、今度はそれなりに楽しく見られそう。

参考:ノイタミナーwiki

墓場鬼太郎 (1) (角川文庫―貸本まんが復刻版 (み18-7))

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似てないようで、実は共通点のあるこの二人:ヨーコ(グレンラガン)とアカギ



ヨーコ(グレンラガン)



赤木しげる(アカギ)

ヨーコと赤木しげる。

一見、この二人のあいだに共通点なんて何もないように思える。
果物でいったら、桃と干し柿くらいの距離感がこの二人のあいだにはある。
なんで、わざわざ果物でたとえ話したんだか自分でもよくわからんけど。

しかし、私はこの前、ヨーコとアカギのあいだにある共通点を発見したので、ここで発表してみたいと思う。

ヨーコは初登場時、たしか14歳だった。
アカギが何歳であるかということはわからないけれども、最初は中学生だった。
なので、上の画像の二人はほぼ同年齢と言える。

ヨーコもアカギも劇中で年齢を重ねる。
そして、成長したときにこの二人は、














アゴが伸びていた。

これが共通点。

「共通点ってそれだけ?」って言われるとこちらも窮するところがあるんだけど、まあ、それだけ。

しかし、ヨーコにしろアカギにしろ最初のキャラデザインのほうが、明らかに正解のように感じる。
最初のほうが完成度が高いっていうか。

これらのアニメでは、キャラが成長したことを、アゴを伸ばす・・・・というよりは顔全体を細長くすることで表現してるわけだけど、そもそも最初の時点でキャラデザインが完成されてしまっているので「まともだったものが崩れていっている」ようにしか見えない。
キャラデザインに正解不正解なんてないだろうけど、とりあえず、アカギは中学生時分のキャラデザのほうが原作には近いし。

キャラの成長を身長を伸ばすことで表現し続けた結果、いつのまにか頭身がとんでもないことになった、といえばキャプテン翼が思い起こされる。




このキャプ翼の悲劇は我々の記憶のなかで、永遠に新ただろう。
さすがにここまでひどくはないだろうし、またアゴと頭身という違いはあるものの、ヨーコとアカギの例もまた、こうした成長の悲劇の一つに数えてよいのではないか。

こうした例は二次元にとどまるものでなく、三次元でもよく見られることである。

成長期のある時点で、顔の造形が完成されてしまったのに、そこからさらに成長するもんだから、次第に造形のバランスが崩れていってしまう。
こういうのは見ているものをなぜか悲しい気分にさせてくれる。

例:SPEEDの今井絵里子、辻加護、タマちゃん(アザラシ)

成長していくことが、ビジュアル面では劣化していく過程にしか見えないのが悲しい。
タマちゃんなんて、最後のほうは可愛くもなんともなかったし。


ところで、グレンラガンのヨーコであるが、彼女の場合、アゴ以外にもある部分を変更することによって成長を表現している。

14歳当時でも十分に胸が大きかった彼女であるが、成長したら、









こんなことになってた。

私は胸は大きいほうが好きだし、つるぺた属性とかいうものが、さっぱり理解できない人間なのであるが、いくらなんでもこれはありえないと思う。
ちょっと気持ち悪い。

やっぱ、ヨーコって最初からお色気路線で発進しちゃってるから、そこからの成長って辛いものがある。
ニアみたいにデフォルトがロリで発進しとけば、まともに成長できるんだろうけど。

ナイナイの矢部は巨乳が嫌いらしいのだが、その理由をかつてこう語っていた。

「エッチしてるときに、おっぱいが田んぼのカラスよけみたいに見えるから」と。




どちらかと言えば、巨乳好きに入る自分ではあるが、これはけだし名言だと思う。

成長してからのヨーコおっぱいが気色悪いのも、おそらく、このおっぱいが田んぼのカラスよけ的なものを感じさせるからだ。
まあ、実際にヨーコのおっぱいがどんななのかについては、誰もわからないわけで、これは自分の妄想でしかないわけだけど。

人が成長することには独特の痛みがともなう。
少なくとも、ヨーコのおっぱいがカラスよけに変化してしまう程度には、成長は物悲しいのだ。

天元突破グレンラガン ヨーコ写真集
天元突破グレンラガン ヨーコ写真集


*ところで、この目玉のカラス(鳥)よけって、実は何の意味もないそうです。
そういえば、確かに田舎とかでもこの目玉って最近は見ないな。

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2007年、個人的ベストアニメ


他に書こうと思ってたことがいくつかあったんですけど、いつの間にか今年も終わりかけてたので(さすが師走、時間の流れるのが速い)、今回はこんなのでお茶を濁してみました。

ふつう、こういうのってベスト5とかベスト10とか、数を区切るものなんでしょうけど「アレを入れるとコレがいれられないしぃ、どーしよう」とかいう精神的な葛藤がわずらわしいんで、面白かったものをあげていってそれで終わりにしました。
あと順位とかもつけてないです。
面倒だし。


精霊の守り人
精霊の守り人 8

アジア的世界を舞台にしたファンタジー。
逃走劇のなかで擬似的な親子関係を築いていくってのがこの作品の本筋。
だけど、その擬似的な親子関係はバルサとチャグムの別れという形でちゃんと終わりを迎える。
いったん築いた親子関係を捨てることで成長を描いてるところが好き。

[参考]
『精霊の守り人』がおもしろすぎて困る件。
『精霊の守り人』の続編はないのですか


DARKER THAN BLACK 黒の契約者
DARKER THAN BLACK-黒の契約者- 1 (通常版)

契約者と呼ばれる異能力者が出てくるアクションもの。
これの好きなところは実はユーモア感覚。
このアニメは味方ですら信用できない、っていう、言ってみればハードボイルドな世界観なんだけど、そのなかで時折はさまれるユーモアってのがかなり好きだった。
今のアニメって共同性を前提とした笑いが多いような気がする。
それは視聴者と作り手のあいだでの共同性である場合もあるし、登場人物間での共同性であったり。
まあ、そういう共同性によりかかった笑いってのも確かにいいもんだし、好きではあるんだけど、この黒の契約者みたいに、共同体の存在にたよらない笑いってのが、もっとあっていいんじゃないかと。
笑いを緊張の緩和と評したのは桂枝雀でしたっけ?
そういうタイプの笑いが多いかなあ、このアニメは。
携帯の着メロが変とかの、どうってことないネタではあるんだけども、それでも緊張感のある場面でそれが出てくるとやっぱり可笑しい。


バッカーノ!
BACCANO!(バッカーノ!) 01

禁酒法時代のアメリカを舞台にしたアクションもの。
アクションシーンのレベルがめっちゃ高かった、これ。
アニメ的な誇張を含んだアクションなんだけど、それにもかかわらず、痛みを感じることができたところも好感。
今まで一回も書いたことがないけど、実は暴力が大好きなんで。
ストーリーは昔の筒井康隆のスラプスティック的な感じで面白かった。
ただ、話の筋がつかみづらいところはあったかな。
だけど、それも最後まで見ればちゃんとわかるし。


ぽてまよ
ぽてまよ 6

ある日、突然あらわれた「ぽてまよ」という謎の生き物との日常を描いたアニメ。
言葉を持たず、「かわいい」や「萌え」の記号を組み合わせただけで作られているこの奇妙な生物を「かわいい」と思ったし、また「萌え」られたのが自分でも不思議だったので入れてみた。
どうも新しい感覚を発見したような気がする。
何を発見したのかは、皆目見当がつかないけど。

[参考]
この変なハマり具合は一体なんなんだ……『ぽてまよ』の魅力に迫ってみる
「ぽてまよ」の海外反響


瀬戸の花嫁
瀬戸の花嫁 三

ラブコメ。
特筆すべきところはあまりないんだけど、面白かったので。


コードギアス 反逆のルルーシュ
コードギアス 反逆のルルーシュ 1

ロボットアニメ。
グレンラガンもそうなんだけど「あえてやりきってみせる」感が印象的。
去年、見たロボットアニメがエウレカセブンとゼーガペインだったので余計そう思うのかもしれないけど、深いところを志向せずあくまで浅いところにとどまる態度ってのが面白かった。
後半ルルーシュが「合衆国日本」を建国宣言したのは、見ていて思いっくそ恥ずかしかったんだけど「まあ、いいか、コードギアスだし」と諦めがついたくらい。
だけど、あそこはユフィが死ぬっていう盛り上がりどころだったから、「合衆国日本」すらなければ、もっと感情移入できたんだけどなあ。残念。


ef - a tale of memories.
ef - a tale of memories.3

恋愛もの。
efに関しては、もう書いちゃったんで、特に書くべきこともないんだけど、とりあえず11話はよかった。
「ゴミを捨てた」にはかなりビビった。
このアニメが他者を描けているかどうかというのはよくわからないけど、それでもとりあえず他者の持つざらっとした手触りがあるのは確かだと思う。

[参考]
総論。アニメ『ef - a tale of memories.』とは何だったのか?


ってことで、数えてみたら7つでした。
なので、ベスト7ってことですかね。
ベスト7・・・・・、今まで聞いたことない言葉ですけど。
だけど、なんか、カッコいいからいいか。

ついでに書いておくと、2007年の個人的最萌えキャラはグレンラガンのニアです。
いや、ヨーコでもいいんだけど、ヨーコは成長すると乳がデカくなりすぎて、ちょっと気持ち悪かったりしたので、そこで減点。

ところで、これが今年最後の更新になるかと思うんですけど、みなさん、よいお年を。


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