作画崩壊って単純には表現できない感情を何とか表現しようとした果てでもあるよね ずいぶんと前の記事だけど、これは素晴らしかった。
なのはの『作画崩壊』の話から、ギャルゲー的なキャラは造形上から表情が乏しいということが書かれている。
私は絵を描ける人間ではないので、こういう視点がとても斬新で面白かったです。
もし読んでない人がいたらぜひ。
で、このなかの一節にこういうことが書かれている。
思うにいわゆる神作画というのは、これまで「アニメの女性キャラの作画で、普段と違って情報量の多い作画の時に使われた言葉」とか、「キャラ表から外れないで動作が丁寧な作画」みたいなニュアンスで使われてきたけど(作画オタの人が言う神作画についてはここでは触れない)、それに加えて「手塚治虫の言うマンガ記号論的な喜怒哀楽の表情から外れない程度に、情報量が多くて丁寧な作画」という側面があるのではないか、と。
手塚治虫のマンガ記号論っていうのは、目や口といった絵を記号のようなものとみなし、その記号の組み合わせで自分の絵が出来上がっている、つまり自分の描いてるマンガは象形文字のようなものではないか、と手塚が語っていた例のアレ。
手塚治虫は自分のマンガを記号の組み合わせで出来ていると(自嘲的にか)みなしていたようだけれども、すべてのマンガ表現が記号的であるとは私には思えない。
たとえば、小畑健や井上雄彦の絵が記号の組み合わせで出来ているのだろうか。
もちろん、見る人が見れば「アレも記号の組み合わせで出来てるんだよ」ということになるのかもしれないけど、とりあえず、私の目にはそう見えない。
一口にマンガと言っても、記号の組み合わせで出来ている度合いってのは、その漫画家によってかなり違ってるように思う。
たとえば、記号の組み合わせの度合いが高いのはケロロ軍曹とか。
アレなんかはまさに記号の組み合わせで感情を表現してるわけだし。
マンガの話はとりあえず、ここではおいておくことにして、ギャルゲーの話。
記号の組み合わせで出来てると言えば、ギャルゲーのキャラってまさにそうだよなあ、ってことをこの記事を読んでて思った。
ギャルゲーをやってるとき、自分は文章を読むのが面倒くさくて、ついついスキップ機能を使ってしまうんだけど、スキップしながらギャルゲーのキャラを見てると「福笑い」を見てるような感覚に陥ることがある。
同じ輪郭のなかで、眉をひそめたり、目をしかめてみせることで感情を視覚的に表現してる。
まさに手塚治虫の記号論と同じ原理でギャルゲーの視覚表現は成り立っている。
また、ギャルゲーは、普通のとき、怒ったとき、悲しいときなどの感情に対応した立ち絵を何種類か作って、それを適宜に出すことによって、キャラの感情を表わすわけだけども、これなんかは感情の記号化とでも呼べるんではなかろうか。
もちろん、ギャルゲーにおける感情表現というのは、視覚的なものに限られたわけじゃない。
文章によって表わすこともできるし、または声がついていれば、声優の演技によっても感情を表現することができる。
だから、ギャルゲーが感情の表現として稚拙なメディアだというつもりはないけれども、こと視覚的な部分に限ってみれば、かなり感情表現が限定されているということは確かだと思う。
で、ここからが本題。
今期のギャルゲー原作のアニメ、CLANNADとef - a tale of memories.。
この二つのアニメのキャラに対する態度というか姿勢がまったく異なっているのが個人的に面白かった。
原作ゲームはどっちも未プレイなんで、これはアニメだけを見た感想。
まずはCLANNAD。




CLANNADはキャラの表情がとても豊かに描かれているように感じる。
きわめて記号的なキャラにもかかわらず。
これは京アニという会社がこうした記号の組み合わせに習熟してるということもあるだろうし、また表情以外のところで感情を表現してることもあるかもしれない。
たとえば、キャラの動きや仕草とか。
京アニのCLANNAD観察眼 これを読むと原作ゲームをやった人の脳裏に浮かんだキャラの動きや仕草に違和感がないように作られてるらしい、CLANNADって。
こういう部分での信頼感があるから、前記した記事にあったように、観鈴の顔を崩したり、ハルヒの顔を崩したりという、キャラの記号の組み合わせを崩す行為に対してもちゃんと支持が得られるらしい。
京アニのキャラに対する姿勢ってのは愛情であり善意だ。
どれだけ活き活きとキャラを動かすことができるか、そこに情熱が傾けられている。
ef - a tale of memories.
これはCLANNADに比べれば、表情が乏しい。
キャラの動きにもそうこだわっている節はない。
しかも、このアニメのなかでキャラは様々に変形される。




影絵にされたり、切り刻まれたり。
このアニメのなかでは、感情を表現するのに、こんなふうにキャラを変形させることで、そのキャラを見ている人物の内面描写がされていることが多い。
CLANNADのキャラに対する姿勢が全き善意だとしたら、ef - a tale of memories.にあるのは悪意だ。
悪意という言葉が悪いとしたら批評性とでも言っていい。
キャラなんて所詮は記号の組み合わせに過ぎないとでもいうような醒めた意識がなければ、こういう絵にはならないだろうと思う。
それが端的に表れているのがOP。




ここでは、それぞれのキャラが影絵で示された後、崩壊していく様が描かれている。
キャラ自体も記号に過ぎず、それはいつでも壊すことが可能であるという感覚。
ここにあるのは、そんな暴力的な批評性だ。
CLANNADに比べると、たぶんef - a tale of memories.のほうが、萌えという感情を喚起する力は弱い。
それも圧倒的に弱いと思う。
キャラの表情を崩すといったレベルではなくて、キャラ自体を崩してみせているんだから、それも当然だろう。
作り手の側がキャラ自体を記号にすぎないと思っているのかどうか、それはわからない。
作中で京介という映研部員が
「オレはただ斬新な画が撮りたいだけなんだよ!」
みたいなことを言うシーンが何回かあるんだけど、ただ単に斬新な画が描きたいだけなのかもしれない。
だけど、とりあえず自分はこれを悪意だと受け取ったし、また批評性だと思った。
そして、そうであるがゆえにef - a tale of memories.は面白いと思う。
なぜなら、アニメやギャルゲーに含まれる「萌え」を虚仮にしてるような痛快さがあるからだ。
そういえば、手塚治虫もこのアニメと同じように、キャラを影絵にしたりとか、図像の一つとして扱っていたような記憶があるんだけど、そういうところで通底した感覚があるのかもしれないなあ。
キャラは記号に過ぎないという醒めた感覚と、またそうであるがゆえに遊びを入れられる度量みたいなもんが。
前述したように、私はこのゲームをやってないんで原作に対する批評性ってのがどれほどのもんなのかよくわからないんだけど、
ゲーム中のイラストは、他のアドベンチャーゲームに多く見られる立ち絵をベースとするのではなく、イベント画を多用し、ヒロイン分岐を無くすことによりプレイヤーにゲームを攻略させるのではなく、鑑賞させることに重点を置いている。(Wikipedia)
これや、
『ef - a tale of memories.』が面白い!~アニメにおける「わかりやすさ」の探求~ 僕がminoriの作品で他に知っているのは『Wind -a breath of heart-』くらいなので、あまり詳しいことはわかりませんが、エロゲの欺瞞に対して自覚的なエロゲメーカであることは間違いありません。
これなんかを読むとこうした批評性ってのはもともと原作ゲームに組み込まれていたものなのかもしれない。
とりあえず、ef - a tale of memories.は面白い。
このアニメを見始めたのは
日本のアニメは本当に世界一か?さんと
tukinohaの絶対ブログ領域さんで絶賛されてたからなんだけど、面白いアニメを教えてもらえて感謝。
[関連記事]
これはスゴイ!『ef-a tale of memories.』第7話が大変な領域に足を踏み入れて来た
おめでとうございます
はじめまして。
新ブログ開設おめでとうございます。
こちらこそ、西園寺様には感謝感謝なのです。
「『巨乳=バカ』説をアニメで検証してみた」とか、
「ピーコばりの毒舌でアニメキャラをファッション
チェックしてみた」とか、発想の多様さには毎度驚
かされています。うちのブログみたいに、視野が狭く
いつも同じことしか書いてない長いだけが取り柄(?)
のサイトとは大違いですよ。
こういうこと書いて良いのか分からないんですが、
本家サイトはコメント&TBできませんでしたので、
西園寺様のこちらのブログ、楽しみにしております。
| skripka | 2007/12/06 01:18 | URL | ≫ EDIT