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実は、ルルーシュと泉こなたの足の長さは同じくらい

【コードギアスR2】さすがの俺でも9.5頭身はないと思う

コードギアスの頭身が高すぎるっていう記事。
(頭身が「高い」っていう言い方が正しいのかどうかよくわからないけど(たぶん正しくないけど)、なんと呼べばいいのかよくわからないので、とりあえず、ここでは「頭身が高い(低い)」と書く)


私も前々から、コードギアスのこのCLAMP体型には一言モノ申したい!と思っていた。
R2が始まったら、一言モノ申そうと思っていたんだけど、思いのほか低視聴率だったり、またPS3の谷口監督のサインをシンナーで消してるのに忙しかったりで、すっかり書くのを忘れていたんだけど、この機会に書いておく。


コードギアスの頭身はたしかに高い。顔は小さいし、手足なんかひょろひょろだ。


コードギアスのひょろひょろ感とは、逆に頭がデカく頭身が低いキャラデザインのアニメも存在する。たとえば、らき☆すたとか。
試しに、ルルーシュ(コードギアス)とこなた(らき☆すた)の顔のサイズをほぼ同じにして並べてみると、こんな感じになる。









geasslucky.jpg
ばきゅーーん


顔を同サイズにしてみると、ここまでの身長差になった。ざっと見て、ルルーシュの身長はこなたのそれの2.5倍くらいだろうか。
しかし、こなたの頭がルルーシュのチンコにすら届いていないという事実には驚かされる。



今度は逆に、ルルーシュとこなたの身長をあわせてみよう。本当は男と女だから身長差はあるだろうけど、まあ、そこはあえて同身長で。
つまり、こなたを巨大化させてみる。すると、こうなる。





geasslucky2.jpg
ばきゅーーん2



こうしてみると、こなたがやたらに強そうに見えるのは私だけなんだろうか?
総合格闘技を見ていると、アマレス出身者は背筋が発達している人が多くて、体の厚みが違うなあ、と感じることがよくあるんだけど、こなたのBODYはそれと同じタイプ。
ルルーシュがタックルにいっても、こなたは余裕でがぶりそう。


そして、もう一つ気になるのが、意外にこなたの足が長いところである。
顔の大きさは表面積にして、ルルーシュの4倍くらいデカいにもかかわらず、腰の位置はほぼ同じ。
こなたに対して、足が長いという印象はまったくなかったので、この発見にはちょっと驚かされる。


コードギアスのキャラの手足が長いことには誰でも気づいている。
だけど、らき☆すたのキャラが実は手足が長いことには、あまり気づいていないんじゃないだろうか。少なくとも自分は、この画像を合成してみるまで、ぜんぜん気づいてなかった。
こなたの手足が短い印象があるのは、たぶん頭がデカいからだ。頭との比較、比率で手足の長さをイメージしてしまうために、相対的に短く見えるんだと思う。実際はルルーシュとほとんど同じだったりするのだが。


コードギアスのように、頭が小さく手足が長いキャラデザイン。
らき☆すたのような頭が大きく、手足が短く見えるキャラデザイン。


自分の感覚でいうと、らき☆すたみたいに、頭身が低いキャラに対しては、まるで愛玩動物に接するときのような感情が芽生える。
たとえば、ミニチュアダックスフンドが短い手足でちょこちょこ、ちょこちょこ、ちょこっとsister的に歩いているのはとてもかわいい。思わず頬ずりしたくなる。
頭身の低いキャラに対する感情もそれと同じだ。


そりゃ、C.C.のケツや、カレンの乳には頬ずりしたい。当たり前だ、そんなのは。
しかし、その頬ずりは、あくまでケツや乳といった性的対象に向けられたものであって、犬に頬ずりしたいというような純粋な接触欲求とは違ってるみたいだ。


そして、頭身が低いキャラの最たるものが、たとえばぽてまよとかなのかなあと思う。


ぽてまよ 3 (3) (アクションコミックスもえよん)
ぽてまよ 3 (3) (アクションコミックスもえよん)



ついでなんで、ぽてまよとルルーシュを並べてみた。



geasspote.jpg
ぽてまよが豆粒みたいに小さい。

















geasspote2.jpg




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ギャルゲーに三角関係が出てこない不思議

いくつかギャルゲーをやっていて気づいたんだけど、どうもギャルゲーには三角関係が出てこないような印象がある。

もちろん、まったく出てこないというわけじゃないんだけど、かなり少ない。
主人公の男を二人の女が奪い合うというのはわりとあるけど、男二人が女一人を奪い合うという形の三角関係があまり見当たらない気がする。

アニメ化されてるということで話に出すのがちょうどいいと思うんで、ここではクラナドを例にとってみる(原作は未プレイだけど)。

このなかで三角関係らしきものは、藤林 杏、椋の双子と岡崎のあいだでしか成立してない。
まあ、岡崎、春原、渚の関係も三角関係といえないことはないけど、渚のなかで春原は確実に恋愛対象には入ってないだろうから、これは三角関係として成り立ってない。

あらためて言うまでもなく、恋愛もののフィクションにおいて三角関係ってのはとてもポピュラーなものである。

たとえば、この漫画。


タッチ (6) (小学館文庫)


タッチのなかでは執拗に三角関係が繰り返される。


まず、最初にあるのがこの三角関係。

sankaku001.jpg


しかし、双子で幼なじみを取り合うってのは、とてもドロドロした話だと改めて思う。
このドロドロってのは、昼ドラ的なドロドロなわけだけど。
それが、ああいう軽い読後感をもたらしてるのを考えると、やっぱあだち充ってスゴい。
あえて、軽いところにとどまってみせるっていうのは、当時の時代性もあっただろうけど、この漫画家の特質でもあったんだろう。
この軽さって真似しようとしてもできるもんじゃないんで、こういうのを才能とか呼ぶんだろうなあ。

あだち充がいかに天才かという話はとりあえず置いておくとして、三角関係の話。

和也が交通事故で死んで、三角関係の一つが欠けてしまう。
すると、その欠けた一点は必ず補われなければならないとでもいうように、すぐさま新田がこの三角関係に入ってくる。

sankaku002.jpg


つまり、この長い青春物語の大部分で、この三角関係は継続されてる。
そして、逆の視点から見ると、こういう三角関係もなりたっている。

sankaku003.jpg


ここではタッチにおける三角関係を見てみたが、他の恋愛もののフィクションにおける三角関係には、たとえば、以下のようなものがある。


sankaku004.jpg



sankaku005.jpg



sankaku006.jpg



sankaku009.jpg



sankaku010.jpg



sankaku011.jpg


このほかにも三角関係なんてはいて捨てるほどあげられるだろう。

一人の人間を二人で取り合うことによって、人物間で闘争が生まれ、内面で葛藤が生じる。
嫉妬やいらだちや焦りを通じて、登場人物のなかで恋愛感情が強められる。

だから、男二人で女一人を取り合うという図式の場合、その女の価値というのは三角関係の効果によって高められる。

たとえば、浅倉南というヒロインはそのままでもたしかに価値が高いだろう。
だけど、和也、新田という、男たちに求愛されることで、よりその価値を増しているといえる。
まあ、需要が高いから価格も高くなるっていうやつ。


ドラマを転がしやすく、またヒロインの価値を高められるから、三角関係が多用されるんだろうってことは、容易にわかる。

だけど、それなら、これだけメリットのある三角関係をなぜギャルゲーは描こうとしないのだろう?不思議。

だけど、これ、少し考えてみたら簡単にわかった。

ギャルゲーの構造ってのはこうなってる。

sankaku007.jpg


ヒロイン、一人一人のルートは独立していることになってるけど、主人公の男はどのヒロインに恋愛してもかまわない。
こういう複数の時系列が並列してるなかで、三角関係を描こうとすると変なことになる。
まあ、女二人が主人公一人を取り合うという形は簡単にできるけど、男二人、女一人パターンは難しい。

もしここに主人公のライバル(恋敵)の男がいたとして、これを仮に新田とでも名づけておくことにする。

そうすると、A子のルートで新田と主人公がA子を取り合うストーリーがあったとすると、この新田はB子ルートではライバル(恋敵)としては使えない。
なぜって新田はA子を好きだという設定になってるはずであるから。
「お前はA子を好きだったはずなのに、なぜB子のことも好きになってるんだ?」という、矛盾が生まれてくる。新田は無節操なやつだ、てなことになる。
まあ、無節操といえばギャルゲーのプレイヤー自身がそうなのであるけど、仮に自分が無節操であったとしても、他人の無節操はやたら目につき不快なもんだ。

だから、男二人、女一人の三角関係をギャルゲーで使うには、そのルートごとに、男の新キャラを登場させなければいけないことになって、これはまずい。
ルートごとに、新キャラが出てくるのって、明らかに変だから。

こういう構造上の理由で、ギャルゲーのなかでは三角関係(男二人、女一人)が描かれないんだろうことはわかる。
だけど、三角関係を描けないことによる弊害ってのは確実にある。
主人公のなかで恋愛感情が高まっていく過程が描きにくいってことと、ヒロインの価値を高められない、というこの二つだ。

で、これを解決する発明ってのが、「ヒロインの過去」なんじゃないかなと思うのだ。

ギャルゲーのなかでは、ヒロインが過去になんらかのトラウマを持っていて、それを解決することで、主人公との恋愛も成就、みたいなパターンがよくある。
クラナドで言えば、一ノ瀬 ことみがその典型。
それと、風子もそうかもしれない。

彼女たちは過去になんらかの葛藤を持っていて、それを主人公と一緒に解決していく。
その過程で、過去を共有するわけだし、そして、そのことによって主人公は彼女らをかけがいのない存在であると認識する。
つまり、ヒロインというものに、過去の時系列を背おわせ、それを共有することによって、二つの問題点を解決してるように見える。

実は私はこのパターンがとても苦手で、これが出るたびに「うわっ、また過去のトラウマ出てきたッ!」とウンザリしてはスキップしちゃうんだけど、個人的な好き嫌いは別として、これはとても優れた発明なんじゃないかとは思う。
私はともかく、多くのプレイヤーには、ちゃんとこの効果が機能しているのだろうしね。

ちなみに私はKeyのゲームでプレイしたことがあるのって、Airだけなんだけど、このゲームのなかでは、このパターンが大げさなまでに展開され、しかもそれが結局のところ成就できないというところがとても面白い。

観鈴という病気がちの少女とつきあっていくと、いきなり平安時代と思しき過去に飛ばされ、過去でのいきさつが語られる。
その後、現代に戻ってくると、主人公はなぜかカラスになってて、物語に参加することすらできない。
主人公、そして私たちは傍観者としてただ物語が流れていくのを見ていることしか許されないまま、ヒロインの観鈴は死んでしまう。
これはギャルゲー的なストーリー展開を踏襲したまま、ギャルゲー的な願いがかなえられないという、大いなる喪失の物語だと思った。
この感覚って、村上春樹の小説に近いような気がする。
他の二人のルートは正直、退屈だったんだけど、観鈴ルートだけは泣きまくってた。涙腺がふやけるんじゃないかってくらい。




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触手はいったいだれのものか?ー触手ものにおけるエロティシズム

アダルトゲームとかアダルトな漫画とかアダルトなアニメとか、そういうとかくアダルトな方面で昔から使われてる表現に触手ものと呼ばれる1ジャンルがある。

触手ものについて、今さら説明するのも気が引けるが、そこをあえて説明してみると、女性に触手がからみついて、色々なアレやコレをするという趣向のエロティックな表現のことである。

この触手ものって、ずいぶんと昔からあるような記憶がある。
どのくらい昔から使われていたのかは知らないので、少し調べてみたら、Wikipediaの触手責めという項目に以下の記述があった。

触手責めは日本において特に好まれ、発展したポルノグラフの一様式である。古くは葛飾北斎の『蛸と海女』で描かれている。触手責めーWikipedia

私は漫画などで、いつから触手ものが使われていたのかを知りたかっただけなんだけど、いきなり北斎まで話が飛ぶとは。
そういえば、この北斎の蛸の春画ってどこかで見た覚えがあるな。
どこで見たのかは忘れてしまったけど。

どうも日本人は昔からイカ、タコなどの軟体動物と女体の絡みにエロティックな妄想を膨らませていたらしい。

同じ項に「(触手責めとは)ファンタジー作品やSF作品に登場する架空の怪物が触手を用いて人間と性行為を行うシチュエーション」なる記述があるんだけど、ファンタジーはともかくSFで触手が使われるのには、想像力の連続性みたいなのが確実にあるんだろう。
なにしろ、昔のSFに出てくる宇宙人ってのは、タコの姿で表現されていたわけだから。

さて、触手ものについて書いてみようと思ったはいいが、実は私は触手ものに詳しくはない。
いや、もし私が触手ものに詳しかったりしても、それはそれで、人格的な屈辱を感じるだろうから、詳しくなくても別にかまわないんだけど・・・・。

ただ、私の狭い知見(←ホントです)から言うと、アニメ、漫画などのいわゆる触手もので、タコやイカの足が実際に使われているのをあまり見たことがない。

触手ものの犯し手がタコ、イカであることは確かにまれではあるけど、別にそういう意味で言っているのではなく、ここで問題にしてるのは触手の形状のことだ。
私が見た触手の形状のほとんどはイカ、タコの足のように吸盤がついているタイプのものではない。
はっきり言っちゃえば、ほとんどの触手はあきらかに男根を模して描かれていた。
先端が丸みを帯びた触手。
これが男根の模造品であることは誰の眼にも明白だ。

北斎はタコの足が女体と絡む様を描いているが、別にそれを男根に似せようとはしていない。
しかし、おそらく、ここでも男根のイメージというのは確実に脳裏によぎっていただろう。
無数の男根が女を蹂躙する、その子供じみた誇大妄想。
こうした、けたたましい性的イメージが触手ものと呼ばれるジャンルが長きにわたって愛用されている要因なのだろう。

しかし、この触手ものと呼ばれるポルノの1ジャンルを見ていると私は不思議な気持ちになる。

よくメディア論などで使われる「身体共有感覚」という用語がある(注1)。
これは、スポーツの試合観戦などをしているときに、視聴者がスポーツ選手の肉体を共有しているかのように感じる感覚のことだ。
たとえば、格闘技の試合などを見ていて、まるで自分が試合をしているような気分になり、知らず知らずのうちに拳を硬く握り締めている、などの経験はほとんどの人がしているであろう。
ちなみに、この身体共有感覚はスピードが速いと働きにくくなり、スピードが遅いと働きやすいと言われている。
たとえば、シュガー・レイ・レナードのすさまじく速いコンビネーション(ほとんど眼にもとまらない)と、総合格闘技における寝技。
このどちらに身体共有感覚が働きやすいかというと、総合の寝技のほうなのである。

いきなり格闘技の話をされても格闘技ファン以外はわかりにくいだろうから、アニメで説明してみると、コードギアスの戦闘シーンよりも劇場版エヴァ(最近のじゃなくて昔のやつ)の戦闘シーンのほうが身体共有感覚は働きやすいってこと。
コードギアスの戦闘シーンはめっちゃ速い(普通の人間の動きよりも明らかに速い)。エヴァはのろい(普通の人間のレベルの動き)。
これを見比べてみれば、スピードが遅い劇場版エヴァのほうが、自分が戦っているような感覚になれるんじゃないかと思う。
まるで、エヴァ弐号機と自分が一体化してるような身体感覚があるはずだ。

実は、私はロボットアニメというジャンルは身体共有感覚というものを、アニメ的に解釈した一大発明なのではないか、という感想を以前から持っていたりするんだけど、それはそれで別の話。

話を元に戻す。

さて、ここで問題提起をしてみたい。
触手ものを見ているとき、我々の身体共有感覚はどのように働いているだろうか?
我々と言っても、これは男性に向けて言っているんだけど、果たしてこの触手という存在をまるで自分の男根のように我々は感じているのか?
女体にめぐらされた無数の触手(男根)を我々は自分のものであるかのように感じることができているのだろうか。

これは自分の主観的な感覚でしかいえないんだけど、とりあえず、自分は触手に身体共有感覚を感じてはいない。
まるっきり感じていないことはないんだが、それはとても微弱なものだ。

実は、私が触手ものを見ているとき、身体共有感覚が働いているのは、むしろ犯される女性キャラのほうだ。
まるで、自分が女性のような気分になって、触手に犯されているかのような感覚がする。
そして、それこそが触手ものがもたらす性的な興奮なのではないか、そう考える。

触手という男根に擬せられたものが過剰なまでに溢れていることを考えればこれはとても不思議なことだ。
だから、我々はこう問うてみるべきなのだ。
「その触手はいったい誰のものなのか?」と。

触手の保有者。
見た目から言えば、それはもちろん怪物や宇宙人のものだ。
しかし、ここで問題にしているのはそういうことではない。
我々の触手ものに対する意識の持ちようとでもいうような、もっとメタレベルでの話だ。

私が思うに、触手ものにおいて触手を自分の体のように感じられないのは、触手の数が多すぎるせいである。
女性キャラの両手両足を縛りつける、乳房や局部に這わせる、口に突っ込む。
これらの複数の動作を触手はやってのける。

一見、これは男性の性的な誇大妄想を具現化しているかのように思われる。
つまり、自分の男根でありとあらゆることをいっぺんにしてみたい、そういう可能性の極大化を表現しているのだと解釈するのは妥当だろう。
たしかに、動機の説明としてはそれは正しいのかもしれないが、問題はあまりに数の多い男根に、男は身体共有感覚を働かすことができるのか、ということである。

つまり、普通の男性は複数の男根を保有したことなどないのだ。
それなのに、触手ものでは、複数の男根を保有し、使用するという映像、画像を見せられる。
複数の男根を操り、女体を侵略してみる、という妄想は、それが妄想でしかないがゆえに面白い。
しかし、そこまで非現実的な身体感覚に(たとえそれが脳内で繰り広げられる絵空事でしかないにしろ)脳が追いつける人間もまたそういないだろう。
はっきり言って、我々はそこまで肉体的な想像力が豊かではないのだ。

たとえば、我々は阿修羅のような6本の腕を持つ人間というものを視覚的に想像することができる。それはたやすいことだ。
しかし、視覚的には容易に想像できる阿修羅であるが、これが実際に自分の腕が6本あったらどうかという、仮定的で肉体的実感をともなった想像を働かせるのはとてもむずかしい。
実際に自分の腕が6本あった状態を想像してみてほしい。
実感として腕が6本ある状態を想像できない人がほとんどだろうと思う。

さて、こうしたことを踏まえてみると、触手ものというのはとても興味深いポルノ表現だと思う。
ここでは男根が過剰であるがゆえに、かえって男根に身体共有感覚が働かないという、ねじれた構造が見て取れる。
そして、行き場を失った我々の身体共有感覚は、犯される側の女性キャラへと一体化しようとするのである。

4840214670あずまんが大王 (1)
あずま きよひこ
メディアワークス 2000-02

by G-Tools


4840222924苺ましまろ 1 (1) (電撃コミックス)
ばらスィー
メディアワークス 2003-01-27

by G-Tools



ポルノではないけれども、あずまんが大王や苺ましまろなどの萌え漫画。
これらのなかでは、男性の姿は消去されている。

現実の半分(男)を意図的になかったことにすることによって、読者は漫画のなかの女性キャラに身体共有感覚を働かせざるをえない。
だから、これらを読んでいると、まるで自分が女の子であるかのような感覚になれるわけだ。
特に、あずまんが大王ではそれが巧妙に仕掛けられている印象がある。
木村という変態教師を唯一の男キャラとして登場させ、彼を嫌われ者として描くことによって、読者が男目線で女子キャラを見ることを禁止している。
芸が細かい。

萌え漫画で男という存在を消去するのと同じ効果が、実は触手ものにもあるのではないか。
しかも、それはあるべき存在を消去するという方法論ではなく、存在の局部を過剰に描くことによって、かえって存在との関わりを消してしまうという、二重構造になっているのである。
触手ものが長きにわたって愛されている(?)のも、ただ単に「女体とぬるぬるした触手がからんでいるのってエッチだから」という単純な理由によるものではないのかもしれない。


(注1)「よくメディア論などで使われる「身体共有感覚」という用語がある。」
ごめんなさい。そんな用語は存在してないです。これは私がとある18禁アニメを見ているときに思いついたものなので。
あと、ついつい長文になってごめんなさい。まさか自分でも触手ものでこんな長文書いちゃうとは思わなかった・・・・・・・。

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映像作品は悪役の存在を必要としやすい

えっと、今回は前回の続きみたいなもんです。

アニメ版fate/stay nightがイマイチだったのは、「fateは文学」だったからかもって話

前回も触れたこの本を読んでたら、別のことに思い至ったんで、今回はそれを書いておこうかと。

4750000655ハリウッド・リライティング・バイブル (夢を語る技術シリーズ)
リンダ シガー Linda Seger フィルム メディア研究所
フィルムアンドメディア研究所 2000-02

by G-Tools


まずは前回も取り上げた、この部分。

コンフリクトにまつわる問題は、小説を脚色する際に、特に頻繁に起こる。ほとんどの小説はダイアローグ主体であり、登場人物の心理へと読者を誘う。我々は小説を読むなかで、登場人物がどのように考えるのか、何を感じるのか、何に価値を置くのか、どう問題に取り組むのかといったことを学び、登場人物の抱く不安感やこだわり、関心事の中から何らかのメッセージを見つけ出す。こういったことが登場人物をより魅力的にし、読者に読む楽しみをもたらすのであるが、映画に翻案する際には問題を引き起こすことになる。小説はリレーショナル・コンフリクトよりインナー・コンフリクトをより頻繁に使う傾向にある。


つまり、小説と映画では、コンフリクト(葛藤)を扱うときに、手法上の差異があるっていう話。
この小説と映画の部分を、エロゲとアニメに代入して「エロゲ原作のアニメは脚色が難しいんだろーなー」みたいなことを前回書いてみた。。

また、この後に、こんな文が出てくる。

小説に忠実であるとは

・小説の中で暗示されているに過ぎないコンフリクトを表面化させる
・それぞれのアクトでコンフリクトが明確になるようシーンを再構築する
・コンフリクトがストーリーを通じて1本の筋道を持つよう、それぞれのシーンに質感を持たせる

といったことを意味する。


私は脚色の方法論みたいなのにまったくの無知だから「へー、なるほどー」なんて感心ながら読んでた。
しかし、こういうのは実例を思い浮かべながらじゃないとよく理解できないもんだ。
なので、なんか良い例がないもんかと頭のなかを検索してみたら、思い浮かんだのがこの映画。

ショーシャンクの空に
ショーシャンクの空に

この映画がとてもよく出来てるってのは観た人なら、ほとんどが同意してくれると思う。
つーか、個人的に大好きなんですけど、この映画。

これはスティーヴン・キングの小説 『刑務所のリタ・ヘイワース』 が原作。
もともとは、以下の4つの中篇小説を一冊にまとめた形式で発売されている。

刑務所のリタ・ヘイワース 
ゴールデンボーイ 
スタンド・バイ・ミー 
マンハッタンの奇譚クラブ 

これらの小説って、この映画を観る前に全部読んでいたんだけど、実はこの4つの小説のなかで、いちばん印象が薄いのが「刑務所のリタ・ヘイワース」だった。
つまり、この映画の原作がもっとも地味に感じた。

スタンド・バイ・ミーは有名すぎるのでいまさら言うまでもないだろうけど、ゴールデンボーイには元ナチス軍人の老人と少年が出会って少年が狂っていくっていうおぞましさがあって印象に残ったし、マンハッタンの奇譚クラブはこれまた異常なモチーフがありつつも感動させられた。

しかし、刑務所のリタ・ヘイワースは「昔、こんな意志の強い男がいたんだよ」っていう昔語りに終始し、それはそれでいいんだけど、どうもあっさりしすぎているように思った。

この4つの小説のなかでは 

刑務所のリタ・ヘイワース 
ゴールデンボーイ 
スタンド・バイ・ミー

この3つが映画化されている。
ゴールデンボーイは未見なので、これは置いておくとして、スタンド・バイ・ミー。
これはほぼ小説どおりに映画化されてるんで、映画と小説の差異ってところでは特に言うことはない。

しかし、スタンド・バイ・ミーとは違って、小説「刑務所のリタ・ヘイワース」が映画「ショーシャンクの空に」に変換されるときには、かなりの変更点が加えられている。
その変更がこの映画を成功させたところだろうし、また、その変更はこの物語を映画という映像メディアに最適化することを目的としているように感じられる。

小説と映画を比べて、もっとも目立つ変更点というのは刑務所長の悪役化だ。
小説では、単なる脇役にすぎなかった刑務所長が、映画では利己的で金にがめついくせに建前的な道徳を振りかざすろくでもないヤツとして描かれている。
映画のクライマックスでも、この所長が主人公の障害として強く印象づけられ、その障害を主人公が乗り越えることによって、物語のカタルシスがもたらされている。

小説に忠実であるとは

・小説の中で暗示されているに過ぎないコンフリクトを表面化させる
・それぞれのアクトでコンフリクトが明確になるようシーンを再構築する
・コンフリクトがストーリーを通じて1本の筋道を持つよう、それぞれのシーンに質感を持たせる

といったことを意味する。


この小説が映画化されるにあたって、まさしくこの通りの手順で変更されてるってのに気づいてなんか感心してしまった。
刑務所が自由を束縛されたろくでもない場所でそこから逃れたいという、主人公の内面的なコンフリクトを刑務所長を徹底的に悪役にすることで小説の中で暗示されているに過ぎないコンフリクトを表面化させている。

・それぞれのアクトでコンフリクトが明確になるようシーンを再構築する
・コンフリクトがストーリーを通じて1本の筋道を持つよう、それぞれのシーンに質感を持たせる


この二つも刑務所長悪役化のおかげでかなり明確になってる。

つまり刑務所長を悪役にすることで、内面的なコンフリクトを視覚化することに成功しているわけだ。
本来は眼に見えない心の中のネガティブな部分を、悪役として外在化することで観客にわかりやすくしてる。
そして、このわかりやすい悪役の存在によってこの映画は成功している。

すべての映像メディアが悪役の存在を必要とするわけではもちろんないけれども、そういう視覚的なわかりやすさを求めやすい傾向ってのはたしかにある。
こういう傾向ってのが映像作品の欠点なのかどうかってのは正直わからない。
たとえば、大塚英志が「9・11テロ以降のアメリカがハリウッド映画の文脈に沿って行動している」という趣旨のことを書いているけれども、この点に関しては自分にはよくわからないし、実感もわかない。
実感のわかないことについては、とりあえず置いておくことにしてるので(無視するとかじゃなくて、とりあえず置いておくって感じで)、まあ、ここもとりあえず置いておく。
ただ、前の記事でも書いたとおり、表現メディアによって必要とされる要素の差異ってのは確かにあるように思う。

小説(やエロゲー)では内面的なコンフリクトが長々と語られてもそう苦にはならない。
エロゲーって注意してみると、かなり回想シーンが多かったりするし。

けど、映像作品(映画やアニメ)でそれをやられると、やっぱり辛い。
だから、そういうときは登場人物の一人を悪役にして、内面的なコンフリクトを視覚的に明確化してみるってのも一つの手なんじゃないかと思った。

たとえば、これは現在放映されているH2Oというエロゲ原作のアニメだ。








画面左の女の子と言い争うシーンなのであるが、女の子のキャラデザインが同一なので視覚的にコンフリクトを表現できているとはいいがたい。

なので、これをこんなふうに、いかにも悪役然としたキャラと取り替えてみる。











エロゲ原作のアニメはダイアローグ中心で内面的なコンフリクトを描きがちであることは、以前述べたが、こうやって悪役を配することによって視覚的にコンフリクトを表現できるのではないだろうか。

なんか左側の人はあきらかに違う世界の住人だし。
とりあえず違和感を引き起こすことにだけは成功してるといっていい。

しかし、このH2Oっていうアニメは、福本キャラを代入なんていう荒業を使わなくても、二話目にして、一人の女の子が「ゴキブリ、ゴキブリ」と級友たちからののしられ、

あげくには、






汚い汚い便所水(セリフのまま)を引っ掛けられるという、イジメが開始されているので、視覚的なコンフリクトはすでに十分すぎるほど表現されてはいる。

話の展開はどろどろしていて、なかなか面白そうではある。
ただし、まだ二話目だというのに、








作画がびみょーなのはいかがなものだろうか。
びみょーっていうか、true tearsなんかに比べると、はっきりとヒドいんだが。

正直なところ、このアニメを見続けることができるのかどうかには、ちょっとしたコンフリクト(葛藤)を感じずにはおれない。






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アニメ版fate/stay nightがイマイチだったのは、「fateは文学」だったからかもって話

古本屋で買ってから、1年以上、読みもせず放っておいた本。
本棚でホコリかぶってた。

4750000655ハリウッド・リライティング・バイブル (夢を語る技術シリーズ)
リンダ シガー Linda Seger フィルム メディア研究所
フィルムアンドメディア研究所 2000-02

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今年は本をもっと読むことを目標にしてるので、本にかかったホコリを吹きはらってこれを読んでみた。

著者は「ハリウッドでスクリプト(脚本)ドクターと呼ばれる著名なコンサルタント」らしい。
簡単に言えば、映画の脚本のダメ出しする仕事ってこと(でいいのかな?)。

で、この本は映画の脚本を書くとき、またはリライティングするときの手助けを目的として書かれている。
映画の脚本というものは、何度もリライトする(書き直す)のが当たり前らしい。
本の題名も「リライティング」となってるんだけど、別にリライトだけにこだわって書かれているわけじゃなく、全般的な脚本の書き方についての本のように感じた。

ジョーズ、トッツィー、スター・ウオーズ、バック・トゥー・ザ・ヒューチャー、SHALL WE ダンス?といった実例を出して、アイデアのまとめ方から、プロットの構成の仕方、キャラクターの造形などといった、脚本をどのように作っていけばいいのか、ということについて詳細に書かれている。

で、この本のなかには「脚本ってのはこんなふうにすると良くなるよ」ってなことがいろいろと書かれてるわけだけど、この「良くなる」っていうのは別に映画の芸術的価値を高められるという意味じゃない。
脚本をどう改良すれば興行的にヒットする映画が作れるか、っていう視点で書かれてる。
どうすれば観客にストーリーを理解させることができるのか、どうすれば観客に驚きを与えられるのか、この本が扱ってるのはそういう脚本の商業的な価値を高めるための方策についてだ。

こういう本を読むのって初めてだったんだけど、どうも「当たり前のことを専門用語を使って説明してる」っていう感じを与えるところが結構あった。

たとえば、

フォーシャドゥイングとペイオフを使うときに情報を巧妙にカムフラージュし、観客の驚きを喚起しただろうか。


この一文を読んで意味のわかる人ってほとんどいないと思う。
だけど、「フォーシャドゥイング」ってのがいわゆる伏線のことで、ペイオフってのが伏線を回収することの意味だってことさえわかりさえすれば、この文はごく当たり前のことを書いてるにすぎない。

そんなわけで、あまり面白くないところは飛ばし読みしていったんだけど、この本のなかで個人的に面白く感じたところが二つあった。

一つ目が「説明ゼリフと回想シーンはあまり使わないほうがいい」ってとこ。

とりあえず、ここでは回想シーンについて触れられたところを抜粋してみる。

回想もまた、多くの場合、劇的ではなく、単に情報をもたらすためのものだ。回想はたいてい、状況やバック・ストーリー、登場人物に関する情報提供のために使われる。よくライターは回想を使ったことを「登場人物についてより多くの情報を伝えようと思い、過去の回想シーンが現在の状況を説明するのに最適だと思った」と説明する。しかし、回想を使ってモチベーションを説き明かそうとしても、うまくいくことは少ない。これにはいくつかの理由がある。まず第一に、モチベーションは登場人物を後押しするものでなくてはならないからだ。回想は、出来事の流れを止めてしまうという性質を持つ。その上、現在よりも、遠い過去にモチベーションを見いだそうとする。(中略)また、回想はディテールを強調するものであり、劇的な瞬間を作り上げるものではない。登場人物の心の奥にひそむ心理を表面化してくれるが、現在の出来事に直接的な影響を及ぼすことはない。


この著者は「回想シーンを絶対に使うな」とは言ってない.
だけど、回想シーンを使うのなら必要不可欠なところで使うべき、とは書いてる。

この文は映画について書かれたものなんで、TVアニメや漫画にそのまま当てはめるのもどうかと思うけど、そこをあえて当てはめてみると、たとえばNARUTO。

アレって回想シーンがかなり多くて、見ててイライラすることが多い。
NARUTOを冗長に感じるのは、自分だけではないと思う。

もちろん、TVアニメや連載漫画はどうしたって中だるみするもんだから、無駄なシーンをとことんまで省いた映画とは一概に比べることはできないけど、とりあえずイラっとくるのは確か。

そして、面白かったところのもう一つが、コンフリクト(葛藤)について述べられたところ。
*以下で使われてるリレーショナル・コンフリクトというのはたとえば主人公と悪役のあいだのような登場人物間で起こる争いを指し、またインナー・コンフリクトってのは登場人物の内面での葛藤のことを指す(らしい)。

コンフリクトにまつわる問題は、小説を脚色する際に、特に頻繁に起こる。ほとんどの小説はダイアローグ主体であり、登場人物の心理へと読者を誘う。我々は小説を読むなかで、登場人物がどのように考えるのか、何を感じるのか、何に価値を置くのか、どう問題に取り組むのかといったことを学び、登場人物の抱く不安感やこだわり、関心事の中から何らかのメッセージを見つけ出す。こういったことが登場人物をより魅力的にし、読者に読む楽しみをもたらすのであるが、映画に翻案する際には問題を引き起こすことになる。小説はリレーショナル・コンフリクトよりインナー・コンフリクトをより頻繁に使う傾向にある。


この後、映画はダイアローグ主体になってはいけない、みたいなことが書いてある。
なんか、ここは「モノローグ主体になってはいけない」の間違いじゃないか、って感じがしたんだけどダイアローグらしい。
言葉でコンフリクトを表現するよりも、視覚的にコンフリクトを表現したほうが、映画的にはいいそうだ。

で、この二箇所を読んでたら、自然とある作品が頭に浮かんできた。

B0001LV6I8Fate/stay night 通常版
TYPE MOON 2004-03-26

by G-Tools


まあ、エロゲーなんですけど・・・。
というか、ここは話の流れ上、ノベルゲームっていう言葉を使ったほうがいいですね、はい。
上記した小説に関する部分の抜粋って、そのまんまノベル(小説)ゲームに当てはめることができるわけだし。

ということで、このfate/stay nightっていうノベルゲームなんだけども、これには回想シーンがやたらと出てくる。
たとえば、士郎っていう主人公は夜ごとに夢を見るんだけど、それが過去の回想。
過去にどんな惨劇が起こり、その時にどう感じたのかってことが夜ごと繰り返される。
たしか、このゲームの作中時間は15日くらいだったと思うんだけど、そのほとんどの夜で夢を見る。つまり、回想シーンがある。

また、セイバーなどの女子キャラの回想シーンも多い。
たしか、遠坂ルートになると、夜ごとの夢が遠坂の回想になるんだっけか。なんか、ここらへん記憶が曖昧だけど。

このゲームでは、上記した本にあるとおり、回想シーンが登場人物のモチベーションとインナー・コンフリクトを説明する役割を担ってる。
「fateは文学」という、誉めてるんだかけなしてるんだかわかんない言い方があるけれども、この回想シーンがfateの文学性を担保してると言っていい。
ここで登場人物の内面描写が深化してるって意味で。

ただ、この回想シーンの多さってのはちょっとしつこい印象すら与える。
実際、私は士郎の回想シーンになると「またか」と思って、飛ばし読みしてた。

「回想は、出来事の流れを止めてしまうという性質を持つ」
確かに、そう。

これは別に、映画の尺度を用いてfateをおとしめようとしてるわけじゃない。

2時間以内にまとめなければいけない映画と、プレイ時間が数十時間に及ぶのが普通(fateの場合だと平均攻略時間が60時間らしい)のノベルゲーム。
リレーショナル・コンフリクト中心の映画とインナー・コンフリクトとダイアローグ中心のノベルゲーム。(もっとも、fateにもリレーショナル・コンフリクトはちゃんとあるけど)
そもそものメディアの属性が違うんだから、同じ土俵に乗せることはできない。

fate/stay nightのなかで、何度も繰り返される回想シーンってのも、ノベルゲームという媒体だからこそ成り立っているわけだろうから、それはそれでいい。

ただ、これをアニメで表現しようとしたときに、アニメというメディアの特性みたいなもんと、fateの持つ文学性が齟齬をきたしてしまってるような印象は受ける。

B000EBCKM6Fate/stay night 1<通常版>
杉山紀彰 川澄綾子 植田佳奈
ジェネオン エンタテインメント 2006-03-29

by G-Tools


このアニメ版fateって、私には退屈だった。
どうも感情移入しにくくて、主人公が一人で突っ走ってくような印象しか持てなかった。
「主人公のモチベーションが描けてない」っていうアニメ評をどこかで見たんだけど、たしかにそういう感じ。

このアニメを見たのがだいぶ前のことなんで、ちょっと記憶が定かじゃないんだけども、たしか回想シーンはかなり少なかったように思う。
少なくともゲームにあるような執拗なまでの回想の繰り返しはなかった。
ここらへんが、主人公のモチベーションを描けていない理由の一つになってるんだろうと思う。

「回想は、出来事の流れを止めてしまうという性質を持つ」という理由で、アニメでは回想シーンを少なくしてるんだと思うけど、それがこのアニメの欠点になってしまっている。
しかし、原作に忠実に回想シーンを頻出させていたら、今度は逆に「出来事の流れを止めてしま」って、それはそれで上手くいかなかったのかもしれない。

このアニメはほとんどセイバールートなので、エロゲーをアニメ化するときにつきまとう「複数の時系列をどう処理するか」っていう問題には悩まされなかったはず。
それなのに、このアニメがいまいちだったのは、士郎やセイバーなどのインナー・コンフリクトをうまく描けていないせいだ。
その方法論的な原因の一つは回想シーンの少なさなんだろうけど、もっと抽象的に言えば「fateは文学」だったからだと私は思う。
文学、つまりはインナー・コンフリクトが多いせいで、映像化するときに、独特の困難があったんだと、そう思う。

漫画が原作であれば、こういう困難もそうないだろうけど、ライトノベルやエロゲーをアニメ化するには、脚本的にはいろんなレベルの難しさがあるんだろう。
エロゲーは特に難しそう。

ただ、こうやって考えたときに、アニメが「原作に忠実だから良い」だとか「原作に忠実じゃないからダメ」っていうのは、ほとんど意味のない評価軸だ。
なぜなら、それは表現メディアの特性を無視しているわけだから。

ものすごく単純にアニメをそれ単体で見て、面白かったとか詰まらなかったとか評価すればいいんだと思うんだけど、こういうのはたぶんマイノリティーなんだろうなあ。

しかし、今さらアニメfateを語るってのもどうかと。
さすがに忸怩たるもんがちょっとばかりあったりするんですけど。
まあ、いっか。

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