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『よつばと!』のよつばの髪が緑色なのはなぜ?

『よつばと!』をロリコン漫画だと思う感覚が僕にはピンと来なかったりします。
何故なら、僕は最近までよつばを男のコだと思っていたから。

よつばが男のコだったら『よつばと!』は……やまなしなひび


よつばを男の子(なんじゃないか?)と勘違いしていたという、この記事がたいへんに面白かった。
私はよつばと!を1巻から順に読んでいったので、そういう勘違いはしなかったのだけれども、途中から飛び飛びに読んでいくと、こういう勘違いもありうるのかと。
その勘違いの方向性が、まったく予想していなかっただけに、やたらと新鮮に感じた。
(そういえば、私もNHKにようこそというアニメを見ていて「このヒロインは主人公の作り出した妄想だ!」と派手に勘違いしたことがあるので、人様の勘違いを喋喋できる筋合いはないのだけど)


この記事を面白く感じたのは、他にも理由がある。
私がちょうど、ユリイカ6月号におさめられた、斉藤環のよつばと!評を読んでいたところだったからだ。そして、これとあわせて読むと、このやまなしさんの「勘違い」には、それなりの理由があるように感じられる。
女の子であるはずなのに、男の子に勘違いされても、おかしくないような要素が、よつばというキャラにはあるんじゃないかと。


ってことで、そのことについて自分なりに書いてみようと思う。



[そもそも、よつばの髪はなぜ緑色なのか?]



よつばと! (2)


とーちゃんに拾われた、外国人の女の子、という設定になってるよつばであるけれども、それならば、いったい「何人」なんだろう?


一巻の最初のほうで、恵那がよつばを一目見て「外国の子?」と感想をもらしていることからして、外国人っぽい、つまりは日本人離れした風貌をしているのだろう。つまり、日本人に顔が似ている、韓国人や中国人ではない。
肌の色からすれば、黒人、東南アジア系、南アジア系でもない。
とすると、たぶん、白人系の人種なんだろう。


しかしながら、白人でも、髪が緑色の人間はいない。まあ、こんなのはわざわざ言うまでもないことだけど。


状況証拠からして「たぶん、白人系なんだろう」と推測ができるだけであって、よつばのビジュアルを見ただけでは、いったい何人なのかはさっぱりわからない。


髪の色に触れたついでに、髪型にも触れておくと、いったい何なんだろう、この髪型は。
名前がよつばだから、四つに髪を結んで、四つ葉をアピールしているのだろうか。
奈良のマスコットキャラだからということで、大仏に鹿の角をつけてみたせんとくんと同種類のセンスを感じる(ごめんなさい、これはさすがに言葉がすぎた)。


他のキャラ、たとえば風香はとてもリアルな肉体に描かれているのに、よつばだけが現実感のない風貌で描かれている(上の2巻の表紙でも、風香の足はとても肉感的に描かれているのに、よつばの足は凸凹がなくまっすぐ)。


斉藤環の文章のなかに、以下のようなくだりがある。(キャラ/キャラクターというのは伊藤剛の援用)

『よつばと!』においてはあきらかに、よつばだけがキャラで、他の人物はキャラクターと考えることも可能だ。だから、先の伊藤剛によるインタビューで、よつばスタジオ代表の里見英樹が指摘しているように、かりに映画化の話があったとしても「よつばだけアニメで、あとは実写でやればいい」ということになる。


やまなしさんの勘違いというのも、つまりは、よつばだけがアニメ的存在だというところに起因してるんじゃないかと思った。つまり、よつばだけが非実写的な、現実に依拠していない存在だからこそ、こういう勘違いが生まれたのではないかと。つまり、勘違いにもちゃんと意味があるわけで、そこが、とても面白かった。


[よつばと!を最初に読んだときの違和感]

実は、初めてよつばと!を読んだときに、このよつばの現実感の無さに、私はかなりの違和感を感じた。これは、ただ単に、風貌だけのことではなく、その言動も含めた総合的な印象なんだけど、よつばのことを、どうも作為的に感じてしまった。
正直に言うと、よつばという存在をうそ臭く感じたのだ。


もっとも、この違和感はすぐ消えた。たぶん、この漫画の文法に慣れたんだと思う。2巻を読むころには、よつばのことも大好きになってた。


よつばと!は一見すると何気ない日常を描いた漫画だ。
牧場に行ったり、天体観測したり、ニジマスを釣りにいったり。
あずまきよひこは自分のブログでモデルになった場所を公開してるから、実際にそこを訪れることも可能だ。

7巻の話~牧場(牧場のシーンのモデルになったのは5ヶ所あるらしい)

よつばと!で描かれている日常は、誰にでも反復可能な日常に見えるけど、それでもやはり、これは漫画のなかだけにしか存在しない日常だ。その漫画らしさを担保しているのが、よつばという存在なんだろうと思う。


[ところで、よつばと!は一般人にも理解できるか?]

そんなのは知らない。知らないが、この前段にはたぶん、「あずまんが大王は一般人には理解できないけど」なる文言が省略されてるんだろうなあ。


たしかに、あずまんが大王は、オタク的特殊性に満ちた漫画だということで、評価が一致してるみたいだ。
もともと私はオタクじゃなかったが、それでも、あずまんが大王はとても面白く感じたので「よつばと!のみならず、あずまんが大王だって一般人にウケる」と主張したいところだけど、さすがに大泉さんのような例を見てみると、それは違うらしい。
(もともと大泉さんはオタクじゃない)

(マリみてを読んで、何が面白いのかわからなかったという話のあと) その後読んだ『あずまんが大王』(*4)は、ある意味でもっとすごかった。これまた女子高生の世界だが、作中に男性主体がいないとかいうレベルの話ではなく、ひたすらかわいいものをめでる作者とキャラの息づかいしかしないのだ。性的な要素が微塵も感じられない。読む人が読めばその空気感が心地よいのだろうが、僕には空気が止まっているようにしか感じられず、眠くて死にそうになった。そして、何度挑んでも最後まで読み通せなかったのである(アニメ版は工夫が凝らされていて面白く見ることができたのだが)。

第16回 ジェンダーの越境 オタクとは何か?


そういえば、私はあずまんが大王を読んだほとんどすぐ後に、よつばと!を読み始めたのだけれど、そのとき、ひどく驚いたことがあった。
女性キャラがやたらとエロティックに見える!んである。あさぎや風香がとても色っぽく感じた。前にも書いたことがあったけど、私はあずまんが大王に出てくるキャラには、ぜんぜんいやらしい目線を向けることができなかった。ただ単に、男キャラが出てくるだけで、これだけの差が生じるのかと驚いたものである。


よつばと!はあずまんが大王に比べれば、あまりオタク的な特殊性は感じない。つまり、一般人にも理解できそうな漫画に見えるのは確かだ。実際にどうなのかはさておき。


だけど、紙屋研究所さんのこの文章なんかは、よつばと!も同じくオタク的な漫画だと主張しているように見える。

お隣にいる三姉妹は「美女」「女子高生」「小学生女子」である。表面からは消して回った性は、この3姉妹に息づいており、そのときどきにむけられる、あずまの彼女たちへの性的なまなざしをみるがいい。何も性的なイヴェントは起こらないけど、作品世界のそこかしこに性的な空気が充満している。

 これは、「ヲタク」の欲望を理想化した世界だ。

あずまきよひこ『よつばと!』


なるほど。たしかに、よつばと!はオタクの欲望を理想化した世界なのかもしれない。
しかし、それはオタクに限った話ではない。だって、隣にあさぎや風香みたいな美人姉妹が住んでたら、男ならだれだってウハウハだろう。
つまり、こんなのはオタクの特殊性に当てはめるべき話ではなくて、ごくありふれた一般的な欲望の一つであるにすぎない。


それから、この文章には一つとても気になるところがある。
あずまきよひこがあさぎや風香に対して、性的な目線を向けているのは確かだと思う。作中では実際に「美女」「美少女」と呼ばれているし。
だけど、「小学生女子」こと恵那に対してはどうだろう?この漫画のなかで、恵那をいやらしい目線で見ているところなんてあったのだろうか?どこらへんが、いやらしい目線で見ているのか、私には見当もつかないな。



ユリイカ 2008年6月号 特集=マンガ批評の新展開
ユリイカ 2008年6月号 特集=マンガ批評の新展開
記事内でとりあげた斉藤環の文章が載ってる。
しかし、それよりも、泉信行という人が書いたスクラン評のほうが面白い。






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実はノストラダムスの予言は当たっていた!?

今、私の手元には一冊の書物がある。

MMRマガジンミステリー調査班 2 (2) (少年マガジンコミックス)


MMRマガジンミステリー調査班の2巻だ。奥付を見ると、初版発行が1992年の4月になっている。


この巻の前半は「人類は滅亡する!?」なる題のもと、「予知は本当にあるのか?」といった素朴な疑問から出発し、ノストラダムスの予言(1999年に人類は滅亡する)へと話が移行していく。
人類に終末をもたらす「恐怖の大王」というのは、核戦争のことを指しているのではないか?MMRの面々は推理し、そしてこの核戦争は日本とアメリカの間で起こるのではないか、と結論づける。


とりあえず、この結論自体はどうでもいい。なにしろ、1999年に何も起こらなかったことをすでにわれわれは知っているのであるから。


2008年の現在、それよりも気になるのは、この後の部分である。


人類の滅亡を食い止めることはできないのか、と絶望に打ちひしがれるキバヤシとナワヤ。
「ま、まさか、終末予言が成就されるというのか」
「そ・・・・、それじゃ、このまま世界は終わってしまうのか!!」


もう人類が滅亡するのは確定事項みたいな雰囲気になったときに、タナカ(あんまり目立ってないヤツ)がこんなことを言うのである。


「いえ、それですべてが終わったわけではありません・・・・・。その後があるかもしれないんです。ヨハネの黙示録もノストラダムスの予言も終末をむかえた後には救世主の出現が予言されているんです。しかも、その救世主とは日本人かもしれないんです・・・・」


「確かとはいえませんが・・・、ノストラダムスの予言からそう読み取れるのがいくつもあってかなり有力な説なんです。そして、すでに数年前にその救世主はこの日本のどこかに生まれてきているというんです


人類の滅亡を救うのが実は日本人かもしれない、しかも子供!という驚愕の事実がここで明らかになった。


この黒黒した雲間からさした一筋の希望の光、めいたものが示されたあと、MMR「人類は滅亡する!?」はこういう文章で締めくくられている。


記録

その救世主は

1981年1月21日生まれだとなっている-----

やがて世界を絶望の淵から救うことになる 現在10歳の少年はあなたの近くにいるかもしれない

あるいは・・・・・

あなた自身かも・・・・・



「その救世主は1981年1月21日生まれだとなっている-----」とは、極めて具体的な予言である。思わせぶりであいまいな文言を使って煙に巻くのが得意な予言者の言葉とはとても思えない。(*ここでいう予言者には、細木数子とか、あと名前は知らないけど体型がぽっちゃりした人を含む)


私はオカルトに詳しくないので確言はできないが、たしか、この説はMMRの発明ではないはずだ。というのも、他のノストラダムス関連本でもこんなことを読んだような記憶があるから。
だから、当時、ノストラダムス研究者の間では、こういう説が唱えられていたのではないだろうか?いや、詳しくは知らないし、わざわざ調べてみる気もないんだけど。


さて、このMMRが連載されていたと思われる1991年の段階では、この、いわゆる救世主はまだ10歳の子供だった。
なにしろ救世主なわけだから、常人ばなれした、なにかしらの能力を持っているものと推察されるが、いかんせん10歳の子供ではその能力も発揮しようがないであろう。


しかし、今は西暦何年だろう?
2008年。


つまり、この救世主と目された子供もすでに27歳になっているんである。


ここはよくよく考えてほしいところであるが、仮にも救世主と目される人間が27歳にもなって無名のままでいる、なんてことがありえるだろうか?


釈迦は、キリストは、ムハンマドはいったい何歳で世に知られるようになったか?


・・・・・・・・・・うん、そういえば、よく知らないや、それ。


私は浅学な人間であるから、よく知らないけど、たぶん、彼らは27歳の時点ではひとかどの人間であると周囲に認識されていたはずである。「あいつはただ者じゃないよ、なんかしでかすよ、そのうち」みたいな。
だから、この救世主も、現在、それなりの人物として名を知られているはずであろう。


たしかに1999年の7の月にはなにもおこらなかったわけで、救世主の存在じたいも怪しいものではある。
2008年の今、わざわざ救世主が誰かということを考察してみることに若干のむなしさを感じないでもない。
ただ、ここまで具体的に誕生日を指定されている救世主なわけである。つまり、人物の特定が比較的、容易なわけだ。そういうわけであるから、この問題について一考してみる価値はある、といえるだろう。


しかし、救世主(日本人、27歳)は、現在いったい何の職業についているのであろうか?


人類を救うという点に着目してみると、やっぱ、政治家とかだろうか?
今、27歳くらいの政治家・・・・・・。
自分の頭には、ただ一人の名前しか思い浮かばない。
なんだか、とても嫌な予感がするんだけども・・・・・。


杉村 太蔵(すぎむら たいぞう、1979年8月13日 - )は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。

杉村太蔵 - Wikipedia


よかったァ。なんかほっとした。太蔵は1981年1月21日生まれじゃなかった。救世主=太蔵なんてオチはさすがに勘弁してほしいところだった。


しかし、太蔵はさておき、救世主の職業なんてことになると、政治家くらいしか思い浮かぶ職業はないもんである。
たとえば、歴史上の人物で「人類の滅亡を阻止した」といえば、私にはキューバ危機のケネディ、フルシチョフくらいしか思い浮かばない。まあ、あれは勝手にケンカ始めて、勝手にケンカをやめただけではあるけど、それでも、人類の滅亡を阻止できるのは政治家くらいのもんだろう。
政治家以外で言うと、科学者あたりもかろうじて、人類の滅亡を阻止できそうな職業ではある。宗教家は、あまり人気なさそうだから却下。政治家、科学者とまでは言わないでも、せめて三丁目地球防衛軍くらいには入隊していてほしいものだ。救世主。


さて、無駄話はここらへんにして、いよいよ、1981年1月21日生まれの有名人を探してみることにしよう。


ちょっとググってみたんだが、私は1981年1月21日生まれの有名人をこの人しか見つけることができなかった。
つまり、この人が、MMRに書かれている救世主であるのではないかと思われる。(他に救世主の方がいらしたらごめんなさい。)
















出合正幸(俳優)(であい まさゆき、1981年1月21日)


えっと、誰?


たいへん、申し訳ないんですけど、この方がどなたなのか私は知りません。あまりテレビを見ないしなあ。見るのはアニメとスポーツ中継だけだし。
しかし、俳優か。救世主とはほど遠そうな職業だ。


俳優がつまらない職業だというつもりではもちろんない。ただ、人類を救うはずの救世主と俳優では、シンクロ率があまりに低かろうと、そういう話だ。


がっかりはしたんだが、とりあえず出合正幸さん(俳優)のウィキがこちら。


出合 正幸(であい まさゆき、1981年1月21日 - )は、日本の俳優。所属事務所はカートプロモーション。大阪府出身。身長175cm。A型。


「轟轟戦隊ボウケンジャー」の高丘映士役でも素面アクションを披露している。

出合正幸 - Wikipedia



そっか、「轟轟戦隊ボウケンジャー」っていう戦隊ものに出てた俳優さんだったのか。どうりで知らないわけだ、自分はあまり戦隊ものとか見てなじゃなくて!!!


じゃなくて!!!


ありえない・・・・・。ここまで読んでこられた方は、そう思われたのではないだろうか。
まさか。まさか、と私もそう思う。


救世主の最有力候補職業として、私は政治家をあげた。
しかし、日本の政治家のトップ、福田康夫に人類が救えるだろうか?ノン。
あんなチンパンに何が出来るっていうのか。
だったら、最大野党のトップ、小沢一郎に人類は救えるか?ノン。
あんなぬらりひょんに何が出来るっていうのか。


彼らに出来るのはせいぜい国内の利益の調整といった小事であって、人類を救うなどといった大事業はとうてい望めない。


しかし、轟轟戦隊ボウケンジャー(ゴーゴーせんたいボウケンジャー、と読むらしい)なら人類を救えるのだ(活躍はテレビ画面のなかに限定されるけど)。
ボウケンシルバーこと高丘 映士(出合正幸さんの役名)なら人類を救えるのである。レッドじゃなくてシルバーっていうところがちょっと引っかかるけれども、彼なら確かに人類を救えるのである。


轟轟戦隊ボウケンジャー THE MOVIE 最強のプレシャス 特別限定版
轟轟戦隊ボウケンジャー THE MOVIE 最強のプレシャス 特別限定版
(シルバーってことで、下部中央が救世主と思われる。)



実はノストラダムスの予言が当たっていたのである。(局所的に)そのことに私は戦慄を覚えた。


大きなところではノストラダムスは予言を外したかもしれない。それはそうだ。だけど、出合正幸さんの運命をノストラダムスは確実に予言していたのである。
だったら、ノストラダムスはペテン師でもなんでもない。
たとえば、超一流のバッターということで評価が定まっているイチローですら、その打数の6割強は打てないものなのだ。それと、ノストラダムスは同じ。イチローとノストラダムスは同じ。そう考えればノストラダムスに対する見方が変わってくるはずである。


ちなみに、人類を滅亡から救う(はずであった)救世主こと出合正幸さんはブログを運営されてるらしい。
救世主ともあろう方がブログなんていう庶民的なことをなさっているとは恐れ多いことである。


出合正幸 オフィシャルブログ「表裏一体」


ちなみに、救世主のちょうど1年前、つまり、1980年1月21日に生まれたのは水樹 奈々(声優)


なんか、このブログ的にはいろんな意味で惜しい!と思わざるをえない。

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スクランの沢近の顔がどんどんバタ臭くなってる件

スクランの沢近の顔が徐々に、しかし確実に変貌を遂げているので、ここで報告しておきたい。



sa001.jpg
最初のころの沢近さん。素直にかわいいと言える、それが大事。



sa2.jpg
最近の沢近さん・・・・・。





sa3.jpg
最近の沢近さん。これだけ見ると北斗の拳っぽい。



初期型に比べて最近のは、どうも顔がバタ臭い。
(注)バタ臭い。バター臭いの略。西洋っぽい、西洋かぶれの意味で使われる。死語。


スクランのなかで、この沢近ってとても好きなキャラだったんだけど、このバタ臭さには正直、閉口する。受け付けない。


バタ臭い、バタ臭いと、今まで一度も使ったことのない言葉を使いまくっているわけで、この用法が正しいのかどうかすら、実はよくわかっていなかったりするんだけど、まあ、それはさておき、この沢近って、よくよく考えてみれば、イギリス人と日本人のハーフという設定になっているので、顔がバタ臭いのは当然のことだ。


白人の血が流れているキャラが、白人っぽく見えるように描かれているのは、漫画家の努力としてまっとうなものだろう。それはわかる。
だけど、これがかわいいとは思えないのも事実。
初期型のほうが、個人的にはずっと好きだ。


漫画でも、アニメでも、エロゲーでもいいけれども、外人キャラと日本人のキャラの顔がほぼ同じってのはよく目にする。
たとえば、高町なのはとフェイトとか。
(そういえば、そもそもフェイトって何人なんだろう?日本人とか外国人とかいう前に、彼女は人間ですらないような気がするけど)


フェイトが何人かという問題はとりあえず、日本人以外は全部外人という乱暴な論理で片付けることにして、外国人であるはずのフェイトと日本人のなのはは、ほぼ同じ顔で描かれている。
違いといえば、フェイトの髪の毛が金髪になっていることくらいのもんで、もしこれを黒髪にしてしまえば、なのはとフェイトのどっちが日本人でどっちが外国人なんだか見分けがつかない。


それから、もう一つ例をあげておくと、「君が主で執事が俺で」に出てくるメイドの二人は外国人という設定だったんだけど、私がそれに気づいたのは「ウチのメイドは外国人が多いから」みたいなセリフが実際に出てきてからだった。ぜんぜん、外国人には見えなかったし、あの二人。たしかに変わった名前だったけど、なぜか漢字が使われていたので、外国人だとは思わなかった。


君が主で執事が俺で キャラクターセレクト
(このなかで「外人」なのは、右下と左下。上の真ん中は金髪碧眼だけどれっきとした日本人)

もっとも、きみあるの場合はなのは×フェイトとは違って、キャラごとに顔は違ってはいる。目が吊り目だったり、丸っこかったりはする。
だけど、その描きわけは写実性によってるわけじゃない。もし写実性があるのなら、日本人と外国人の区別がつかないなんてことはありえないわけだし。


こういう言い方であってるのかどうかわからんけど、見ている側と絵師のあいだに、暗黙の了解があって、その了解の範囲内で変化をつけているように思える。


初期のスクランもまた、そうした了解の範囲内での絵だったように思う。
沢近は吊り目で描かれてはいたけれど、他の日本人キャラ、天満とか周防とかと比べて、とくに外国人っぽいわけじゃなかった。沢近の外人っぽさってのは、ただ単に髪が金髪として記号的に示されるだけのことだった。


それが徐々に外人っぽい絵になっていく。具体的に言えば、線が男性的、直線的になってる。
これを写実性と呼んでいいのかどうかはわからないけど、たしかに初期に比べればはるかに外人っぽい。


で、最初に書いたように、どうもこれが受け付けない。かわいいと思えない。


髪型、髪の色が違うだけで、顔は全部同じっていうキャラデザインってよくあるし、またそれはよくからかわれたりもする。
だけど、この沢近みたいに、あらかじめ了解された範囲から外れたものって、たとえそれが間違っているわけではなくても受け付けないもんだなあ、と自分で自分の感覚が面白かったので書いてみた。




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触手はいったいだれのものか?ー触手ものにおけるエロティシズム

アダルトゲームとかアダルトな漫画とかアダルトなアニメとか、そういうとかくアダルトな方面で昔から使われてる表現に触手ものと呼ばれる1ジャンルがある。

触手ものについて、今さら説明するのも気が引けるが、そこをあえて説明してみると、女性に触手がからみついて、色々なアレやコレをするという趣向のエロティックな表現のことである。

この触手ものって、ずいぶんと昔からあるような記憶がある。
どのくらい昔から使われていたのかは知らないので、少し調べてみたら、Wikipediaの触手責めという項目に以下の記述があった。

触手責めは日本において特に好まれ、発展したポルノグラフの一様式である。古くは葛飾北斎の『蛸と海女』で描かれている。触手責めーWikipedia

私は漫画などで、いつから触手ものが使われていたのかを知りたかっただけなんだけど、いきなり北斎まで話が飛ぶとは。
そういえば、この北斎の蛸の春画ってどこかで見た覚えがあるな。
どこで見たのかは忘れてしまったけど。

どうも日本人は昔からイカ、タコなどの軟体動物と女体の絡みにエロティックな妄想を膨らませていたらしい。

同じ項に「(触手責めとは)ファンタジー作品やSF作品に登場する架空の怪物が触手を用いて人間と性行為を行うシチュエーション」なる記述があるんだけど、ファンタジーはともかくSFで触手が使われるのには、想像力の連続性みたいなのが確実にあるんだろう。
なにしろ、昔のSFに出てくる宇宙人ってのは、タコの姿で表現されていたわけだから。

さて、触手ものについて書いてみようと思ったはいいが、実は私は触手ものに詳しくはない。
いや、もし私が触手ものに詳しかったりしても、それはそれで、人格的な屈辱を感じるだろうから、詳しくなくても別にかまわないんだけど・・・・。

ただ、私の狭い知見(←ホントです)から言うと、アニメ、漫画などのいわゆる触手もので、タコやイカの足が実際に使われているのをあまり見たことがない。

触手ものの犯し手がタコ、イカであることは確かにまれではあるけど、別にそういう意味で言っているのではなく、ここで問題にしてるのは触手の形状のことだ。
私が見た触手の形状のほとんどはイカ、タコの足のように吸盤がついているタイプのものではない。
はっきり言っちゃえば、ほとんどの触手はあきらかに男根を模して描かれていた。
先端が丸みを帯びた触手。
これが男根の模造品であることは誰の眼にも明白だ。

北斎はタコの足が女体と絡む様を描いているが、別にそれを男根に似せようとはしていない。
しかし、おそらく、ここでも男根のイメージというのは確実に脳裏によぎっていただろう。
無数の男根が女を蹂躙する、その子供じみた誇大妄想。
こうした、けたたましい性的イメージが触手ものと呼ばれるジャンルが長きにわたって愛用されている要因なのだろう。

しかし、この触手ものと呼ばれるポルノの1ジャンルを見ていると私は不思議な気持ちになる。

よくメディア論などで使われる「身体共有感覚」という用語がある(注1)。
これは、スポーツの試合観戦などをしているときに、視聴者がスポーツ選手の肉体を共有しているかのように感じる感覚のことだ。
たとえば、格闘技の試合などを見ていて、まるで自分が試合をしているような気分になり、知らず知らずのうちに拳を硬く握り締めている、などの経験はほとんどの人がしているであろう。
ちなみに、この身体共有感覚はスピードが速いと働きにくくなり、スピードが遅いと働きやすいと言われている。
たとえば、シュガー・レイ・レナードのすさまじく速いコンビネーション(ほとんど眼にもとまらない)と、総合格闘技における寝技。
このどちらに身体共有感覚が働きやすいかというと、総合の寝技のほうなのである。

いきなり格闘技の話をされても格闘技ファン以外はわかりにくいだろうから、アニメで説明してみると、コードギアスの戦闘シーンよりも劇場版エヴァ(最近のじゃなくて昔のやつ)の戦闘シーンのほうが身体共有感覚は働きやすいってこと。
コードギアスの戦闘シーンはめっちゃ速い(普通の人間の動きよりも明らかに速い)。エヴァはのろい(普通の人間のレベルの動き)。
これを見比べてみれば、スピードが遅い劇場版エヴァのほうが、自分が戦っているような感覚になれるんじゃないかと思う。
まるで、エヴァ弐号機と自分が一体化してるような身体感覚があるはずだ。

実は、私はロボットアニメというジャンルは身体共有感覚というものを、アニメ的に解釈した一大発明なのではないか、という感想を以前から持っていたりするんだけど、それはそれで別の話。

話を元に戻す。

さて、ここで問題提起をしてみたい。
触手ものを見ているとき、我々の身体共有感覚はどのように働いているだろうか?
我々と言っても、これは男性に向けて言っているんだけど、果たしてこの触手という存在をまるで自分の男根のように我々は感じているのか?
女体にめぐらされた無数の触手(男根)を我々は自分のものであるかのように感じることができているのだろうか。

これは自分の主観的な感覚でしかいえないんだけど、とりあえず、自分は触手に身体共有感覚を感じてはいない。
まるっきり感じていないことはないんだが、それはとても微弱なものだ。

実は、私が触手ものを見ているとき、身体共有感覚が働いているのは、むしろ犯される女性キャラのほうだ。
まるで、自分が女性のような気分になって、触手に犯されているかのような感覚がする。
そして、それこそが触手ものがもたらす性的な興奮なのではないか、そう考える。

触手という男根に擬せられたものが過剰なまでに溢れていることを考えればこれはとても不思議なことだ。
だから、我々はこう問うてみるべきなのだ。
「その触手はいったい誰のものなのか?」と。

触手の保有者。
見た目から言えば、それはもちろん怪物や宇宙人のものだ。
しかし、ここで問題にしているのはそういうことではない。
我々の触手ものに対する意識の持ちようとでもいうような、もっとメタレベルでの話だ。

私が思うに、触手ものにおいて触手を自分の体のように感じられないのは、触手の数が多すぎるせいである。
女性キャラの両手両足を縛りつける、乳房や局部に這わせる、口に突っ込む。
これらの複数の動作を触手はやってのける。

一見、これは男性の性的な誇大妄想を具現化しているかのように思われる。
つまり、自分の男根でありとあらゆることをいっぺんにしてみたい、そういう可能性の極大化を表現しているのだと解釈するのは妥当だろう。
たしかに、動機の説明としてはそれは正しいのかもしれないが、問題はあまりに数の多い男根に、男は身体共有感覚を働かすことができるのか、ということである。

つまり、普通の男性は複数の男根を保有したことなどないのだ。
それなのに、触手ものでは、複数の男根を保有し、使用するという映像、画像を見せられる。
複数の男根を操り、女体を侵略してみる、という妄想は、それが妄想でしかないがゆえに面白い。
しかし、そこまで非現実的な身体感覚に(たとえそれが脳内で繰り広げられる絵空事でしかないにしろ)脳が追いつける人間もまたそういないだろう。
はっきり言って、我々はそこまで肉体的な想像力が豊かではないのだ。

たとえば、我々は阿修羅のような6本の腕を持つ人間というものを視覚的に想像することができる。それはたやすいことだ。
しかし、視覚的には容易に想像できる阿修羅であるが、これが実際に自分の腕が6本あったらどうかという、仮定的で肉体的実感をともなった想像を働かせるのはとてもむずかしい。
実際に自分の腕が6本あった状態を想像してみてほしい。
実感として腕が6本ある状態を想像できない人がほとんどだろうと思う。

さて、こうしたことを踏まえてみると、触手ものというのはとても興味深いポルノ表現だと思う。
ここでは男根が過剰であるがゆえに、かえって男根に身体共有感覚が働かないという、ねじれた構造が見て取れる。
そして、行き場を失った我々の身体共有感覚は、犯される側の女性キャラへと一体化しようとするのである。

4840214670あずまんが大王 (1)
あずま きよひこ
メディアワークス 2000-02

by G-Tools


4840222924苺ましまろ 1 (1) (電撃コミックス)
ばらスィー
メディアワークス 2003-01-27

by G-Tools



ポルノではないけれども、あずまんが大王や苺ましまろなどの萌え漫画。
これらのなかでは、男性の姿は消去されている。

現実の半分(男)を意図的になかったことにすることによって、読者は漫画のなかの女性キャラに身体共有感覚を働かせざるをえない。
だから、これらを読んでいると、まるで自分が女の子であるかのような感覚になれるわけだ。
特に、あずまんが大王ではそれが巧妙に仕掛けられている印象がある。
木村という変態教師を唯一の男キャラとして登場させ、彼を嫌われ者として描くことによって、読者が男目線で女子キャラを見ることを禁止している。
芸が細かい。

萌え漫画で男という存在を消去するのと同じ効果が、実は触手ものにもあるのではないか。
しかも、それはあるべき存在を消去するという方法論ではなく、存在の局部を過剰に描くことによって、かえって存在との関わりを消してしまうという、二重構造になっているのである。
触手ものが長きにわたって愛されている(?)のも、ただ単に「女体とぬるぬるした触手がからんでいるのってエッチだから」という単純な理由によるものではないのかもしれない。


(注1)「よくメディア論などで使われる「身体共有感覚」という用語がある。」
ごめんなさい。そんな用語は存在してないです。これは私がとある18禁アニメを見ているときに思いついたものなので。
あと、ついつい長文になってごめんなさい。まさか自分でも触手ものでこんな長文書いちゃうとは思わなかった・・・・・・・。

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たとえ、それがおっさんであっても神楽坂という名字だったら「え?ひょっとしてツンデレ?」とか思ってしまうに違いない

みなさん、ある程度の時間、この人生というやっかいなものを過ごしていると、特定の名字に対してある種の固定観念みたいなものが生まれてきませんか?

たとえば、高橋という名字に私はある特定のイメージを持っています。

簡単に言えば「高橋姓にはなぜかバカが多い」というイメージです。
それは今まで出会ってきた高橋さん達の言動が私のなかで澱のように積もり、「高橋=バカ」という固定観念を生み出してしまったわけです。
もちろん、これは一般化できるような話ではなく、あくまで私の経験からくる局地的な真理でしかありません。(いや、真理ですらないですけど)
しかし、私が高橋という名字に「バカ」というイメージを持ってしまっているのは事実。
以下、試しに私の高橋という名字を持った人たちとどういう関わりをもってこうした結論に至ったのかについて簡単に書いてみます。

あらかじめ断っておきますが、全国の高橋さん、不快な思いをさせてしまってごめんなさい。
悪気は少ししかないので許してください。


小学校5年のときにクラスメートだった、高橋太郎くん。
高橋という部分は、そのままですが、太郎というのは仮名です。
さすがにフルネーム出すわけにはいかないので。

その高橋くんは、習字の時間に「好きな言葉を書け」というお題を出されて、こう書いた。

takahashi02.jpg


好きな言葉に「努力・友情・勝利」という、某少年誌のお題目を書いているところが、高橋くんがバカであることを示している・・・・・というわけではないです。
そんなことを言ったらジャンプ読者にケンカ売ってるようなもんですし。
実を言うとこの「努力・友情・勝利」は今、自分で適当に書いたものなので高橋くんとは何の関係もありません。

全体の紙の長さを考慮しなかったばっかりに、努力・友情のところは普通のサイズで書いているのに、勝利のところで紙幅が尽きてしまって尻すぼみになってるところがバカ!・・・・・・っていうわけでもありません。
今述べたように、これは自分で書いたものですし。適当に書いたら余白がなくなっちゃっただけです。(←バカ!!!)

実は高橋くんがバカであることを示すポイントはここ。








takahashi.jpg


名前です。
高橋くん、自分の名字を間違えて、のぎへんにしてた・・・・・・・・・。そのとき、もう小5だったのに。

クラス中の爆笑をゲットした、この事件が私にはたいそう印象深く「ひょっとして高橋はみんなバカなんじゃないか」という疑念を抱かせるきっかけとなりました。

次に私が会った高橋さん。
この高橋さんは口から先に生まれたんじゃないかと思うほど、よく喋るオッサンでした。「お前と話しているとなぜか気が滅入る」と周りに評されるこの私を相手に2時間、3時間は平気で喋る。
よく喋れるな。私のような、ろくに相槌すら打たない木偶の坊相手に。

彼はどこがバカだったのでしょうかか?

この高橋さんは昭和18年生まれだったんですが、自分は「戦後生まれだ」と言っていました。


太平洋戦争の年表
1941年(昭和16年)
日本、英米蘭に宣戦布告(太平洋戦争開戦)

1942年(昭和19年)
ミッドウェー海戦
第一次ソロモン海戦
第二次ソロモン海戦

1943年(昭和18年)
山本五十六連合艦隊司令長官、ブーゲンビル島上空で戦死
イタリア、連合国に降伏。
東京で大東亜会議を開催、大東亜共同宣言を発表。
エジプト・カイロで英米中首脳会談(カイロ会談)
高橋さん、生まれる。←!!!

1944年(昭和19年)
グアム島の日本軍玉砕。
レイテ沖海戦
神風特別攻撃隊、レイテで初出撃。
米軍の新型爆撃機B-29、マリアナ諸島より東京を初空襲。

1945年(昭和20年)
クリミア半島ヤルタで英米ソ首脳会談(ヤルタ会談)。
硫黄島の戦い
東京大空襲
沖縄戦
戦艦大和沈没
ドイツ総統ヒトラー自殺。
ナチス・ドイツ滅亡。
米軍、広島に史上初の原子爆弾投下。
米軍、長崎に原爆投下。御前会議でポツダム宣言の受諾を決定。
8月15日 日本国民へ玉音放送(終戦の詔)。


年表を見ていただけると一目瞭然なんですが、高橋さん、どう見ても戦時中に生まれてます。

中学、高校生くらいが、終戦が昭和20年ということを知らないことには別に何も思いません。
昔の話だし、そう正確に覚えていなくても当然だろうとは思う。
そもそも、昭和で覚えるよりも、西暦1945年が終戦、という覚え方をしてる人のほうが多いでしょうし。
だけど、いくら終戦当時に物心がついてなかったとは言っても、戦前生まれの人間が終戦がいつかってのを知らないってのはどうも・・・・。

この高橋さんとの出会いが私のなかで「高橋=バカ」という図式を決定的なものにしました。
だから、私は高橋という名字の人と会ったりすると、それだけで「ひょっとしたら、この人ってバカなんじゃないか?」と思ってしまうクセがついちゃってます。

高橋陽一先生、ごめんなさい。
先生がサッカーのルールをガン無視した漫画描くのは、先生がバカなせいじゃないかとかひそかに疑ったりしてます。勝手な思い込みでホントにごめんなさい。

フィギュアスケートの高橋選手、ごめんなさい。
あなたがいつも、口を半開きにしてるのをテレビで見ていると私のなかで「高橋=バカ」説がより信憑性を帯びてきます。
せっかく、男前なんだから、もう少し口を閉じたほうがいいんじゃないでしょうか。老婆心ながら。


えっと、この高橋以外に印象深い名字というと「高原」ですかね。
つーか、また「高」の字がついてますが。

高橋さんと違って、私は高原さんを一人しか知らないんですが、この人があまりに強烈な人だったので、高原と聞くと、私の頭のなかにはすぐこの人のイメージがわいてきます。
この高原さんは、当時25くらいでしたかね。
見た目はちょっと怖かった。

で、この高原さん、車に乗っていて、妙齢の女性を見かけると、おもむろに窓を開け


「姉ちゃん、やらせろや!」



と大声で叫ぶという、まあ、とんでもない人でした。

そのほかにも、背中に墨が入っていたり、ムショ帰りだったり、シャブ中だった過去を持っていたりすることもあって、それ以降、私のなかで「高原は野獣」というイメージを決定づけてくれました。
サッカーの高原選手とかも、優しそうな顔してるけど、さぞかし野獣なんだろうなー。まあ、何の根拠にもなってないんですけど。

と、このように人間というものは、特定の名字に対して何らかのイメージを持ってしまっていることが、ままあるんじゃないかと思われます。
それは、同じ名字に同じタイプの知り合いが何人かいるという、経験の蓄積からくる思い込みであったり、一人の強烈な人を知っているがために、その名字に固定的なイメージがついてしまったり。

アニメ、漫画、ゲームでは、今まで聞いたことのない名字のキャラってのがよく出てきます。
日常生活では、まず出会うことのないタイプの名字。

こういう変わった名字が使われることの理由の一つには、上述した固定観念の混入をさける目的があるのではないか。
つまり、一般的でありがちな名字を使ってしまうと、そのキャラのイメージに受け取り側の固定観念(高橋=バカみたいな)が付与されてしまう恐れがあるために、普通、出会うことのなさそうな名字を付けているんではないか、みたいなことをずいぶん前に書いた覚えがあります。
我ながら下らない考察だったんですけど、下らないことを書いてるのはいつものことなので、まあ、いいか。

ここでは、現実→フィクションという矢印を避けるために、こうした珍しい名字が使われているわけですが、これを裏返してみるとどうでしょうか。
つまり、フィクション→現実という事態が発生したとき、我々はいかなる精神作用を及ぼされてしまうのか、という問題です。
具体的に言うと、既に特定のキャライメージがついている名字の人と現実で出会ったとき、我々は必ずその人を歪んだ視線で見てしまうに相違ない。

神楽坂 椰子 沢近 遠坂 厳島 涼宮 花鳥

これらの普段の生活では滅多に出会うことのない名字の数々。
しかし、もし万が一、これらの名字の人と現実で出会ってしまったとき、たとえ、それが顔のホクロから毛がにょろんと出ているような、むさくるしいオッサンであったとしても、

「え?ツンデレ?」

とか思ってしまい、ひょっとしたら自分にしか見せないか弱い部分があるんじゃないか、などとありえない妄想にふけり、その毛がにょろんのオッサンについときめいてしまう。
そんな事態が考えられます。

また、

高屋敷 鳴沢 涼宮 北条 遠野 朝霧

これらの名字の人がたとえ、細木数子みたいな美少年以外のすべてに敵意をむき出しにするようなオバサンであったとしても、

「え?ひょっとして妹タイプ?」

とか思ってしまい、まるで小動物を見るような愛おしい感情が沸き起こり、細木数子とありえない過ちを犯してしまう。そんな事態が考えられないこともない。

これはその名字が珍しいものであればあるほど、こうした精神作用は強くなると考えられます。
たとえば、神楽坂、椰子、沢近、厳島、花鳥、高屋敷、鳴沢あたりは相当に珍しい。
なので、こうした名字の人と出会った時の精神作用、言い換えれば感激は相当に強くなってしまう可能性があります。
なので、特に注意が必要かと。

[参考記事]
属性別選手権 ツンデレ級王者決定戦
第2回 属性別選手権 いもうと級

ところで、この両方に出てくる涼宮という名字なんですけど、妹のほうの涼宮茜(君が望む永遠)のほかにも涼宮遥なんてのもいますね。つーか、それ茜の姉ちゃんなわけですけど。
ハルヒを想起すればツンデレ、茜を想起すれば妹、遥を想起すればなぜか涙がとめどなく溢れてくるという、この厄介な涼宮という名字。
しかし、この名字ってそもそも実在してるんですかね。
どうも、作り物臭いんですけど。
涼宮のほかにも、椰子とかもありえなさそうな名字に感じます。
しかし、椰子はかわいかったなー。もっとも、鉄(くろがね)のほうが好みではありましたけど。
あ、鉄(くろがね)もありえなさそうな名字だな、しかし。


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